満蒙開拓とは

「満蒙開拓(まんもうかいたく)」は、1931(昭和6)年の満洲事変から1945(昭和20)年のアジア太平洋戦争終結までの間、日本の対外進出の一環として現在の中国東北部に約27万人の日本人を入植(にゅうしょく=開拓などのために移り住むこと)させた、当時の国策でした。

 

 「満蒙」の「満」は満洲(現在の中国東北部-遼寧省、吉林省、黒龍江省など)、「蒙」は内蒙古(モンゴル高原の東部、ゴビ砂漠の東側)を意味します。「満蒙」とは、この二つの地域をつなげて日本側が名付けた造語です。  

日露戦争(1904-1905)に勝利し、関東洲(遼東半島南部)の租借権(そしゃくけん=他国の領土を一定期間借りる権利)、南満洲鉄道などの権益を獲得した日本は、1919(大正8)年に陸軍の一部を「関東軍」(かんとうぐん)として派兵、駐留させて、中国大陸での勢力を広げようとしました。関東軍は1931(昭和6)年、南満洲鉄道の線路を爆破し、満洲全土を武力で制圧します(「満洲事変」)。1932(昭和7)年に日本は一方的に「満洲国」(日本のかいらい国家)を建国し、満洲に農業移民を送り出します。

 

 

背景には昭和恐慌があり、とりわけ不況の打撃を受けた農村部で、主要産業の一つの生糸の輸出が激減、さらにコメの価格も下落して農家は借金を負い、村や町などの自治体も負債をかかえていました。そこで、移民により農村の人口を減らして経済を立て直し、満洲では日本人の人口を増やして治安を強化し、ソ連に対する戦争に備えようとしたのです。

 

 

1936(昭和11)年、「満洲農業移民百万戸移住計画」が国策となり、1938(昭和13)年からは農村人口を適正化し村単位で移民を送出する「分村移民」も始まりました。“大陸の花嫁”として若い女性らを送り出す運動も始まります。農村部だけでなく、東京など都市部でも募集が行われ、送られます。しかし、実際はすでに居住していた中国人・蒙古人・朝鮮人らの土地や畑を安く購入したり、収奪することで成り立っていた移民・開拓事業で、反発を抑えての移住の推進でした。

 

 

1937(昭和12)年日中戦争が始まり、戦時体制が強化されると、成人移民の募集が困難になり、1938(昭和13)年度からは、満15歳から18歳の男子を武装開拓移民とする「満蒙開拓青少年義勇軍」が新たに募集されて、送り出されます。

1945(昭和20)年8月の敗戦までに全国から満洲に送り出された開拓団移民はおよそ27万人、満蒙開拓青少年義勇隊(満蒙開拓青少年義勇軍の満洲における正式名称)は8万7千人と言われています。開拓団は、満洲のほぼ全域に入り、ソ連との国境付近にも配置されました。

 

1945年8月9日にソ連が対日参戦すると、敗色濃い関東軍は一方的に撤退し、取り残された開拓団の人々は悲惨な境遇にさらされます。男性は根こそぎ動員されて、開拓地に残されたのは女性や子ども、老人ばかりで、襲撃を受けたり、集団自決、病気、栄養失調などで多くの犠牲者を出します。開拓団の約3割の約8万人が亡くなり、青少年義勇軍はその後にソ連に抑留された人もいて、2割以上が亡くなっています。

 

大変な逃避・引き揚げ行を経て、帰国できた人々も、国内での新たな開拓事業に従事するなどの労苦が戦後も続きました。家族と一緒に帰国できなかったり、家族が現地で亡くなり、中国人に引き取られて育てられ、今も現地に取り残されている日本人、後から帰国できても言葉が通じず、苦しい生活を余儀なくさせられている方々やその二世・三世など、中国残留孤児や残留女性の問題は21世紀の現在まで続く未解決の深刻な人権問題です。

 

被害国・中国側の感情的な問題もあり、犠牲者の遺骨収集もできず、慰霊や追悼も難しい現実を今も抱えています。

 

(2022.11.28.記)