VOL.5 <青少年義勇軍が予算化されて国策となるまで>
NO.3 閣議決定から実施要領まで、そしてその背景 その3 経済更生運動
※煩雑を避けるため、”満洲”を””抜きで満洲と表記します
農山漁村経済更生運動(1932~)
第63臨時議会では、応急対策としての救農土木事業とあわせて、恒久対策として農山漁村経済更生運動が決められました。政策でありながら運動と呼ぶやや不思議な救農対策です。そのことについては研究者の楠本雅弘氏が以下のようにまとめています。
農山漁村経済更生運動とは具体的にはどのような内容か、正式な名称「農山漁村経済更生計画樹立実行運動」で推測できる通り、恐慌で疲弊した村の再建を目的とする計画を村自身で立てること、が第一義の政策なのです。
計画を立てたらそれを実行することまでを見通してはいますが、とにかくまずは計画立案、そのためには村の実態を調査して把握する必要がある、だからその経費として100円を補助する、というわけでその予算はおよそ900万円、救農土木事業費およそ1億1000万円(農林省のみ)の8%余りに過ぎません。
ずいぶんと安上がりな恒久策ではありますが、提案した農林省には自信がありました。当時農林省で技官として自らも経済更生運動に携わった竹山祐太郎は、戦後の回顧の中で、「たまたま」兵庫県農会が山脇延吉会長らの指導で「自発的に『農村農家自力更生運動』を始めた」ことなどを、政府主導の運動に「いち早く取り上げ」た、と証言しています(資料6)。官僚の机上の計画などでなく、農村自身の自発的運動がスタートだから失敗するわけがない、というのです。
兵庫県農会の自力更生運動
当時、農林省の幹部は後藤文夫大臣、石黒忠篤事務次官、小平権一(S7.9.27設置の経済更生部初代部長)で、「三幅対」と称されるほど息の合ったトリオでした。石黒と小平は農商務省(1881~1925、以後農林省と商工省に分割)時代から農政課の課長と課員という関係でした。
その時代に石黒の発案で農家経営の実態把握調査を行っています。官僚主導でなく民間農業団体に任せるという石黒の方針で、21府県の農会に傘下の農家の家計を毎日こと細かに帳簿に記録し報告させたのです(資料7)。その21府県の一つが兵庫県農会でした。
農商務省は1923(大正12)年度以降さらに調査を強化する計画で21府県に担当者を置かせ、一堂に集めて長期講習会も開催しています。講習会は関東大震災で頓挫しましたが、農家経済調査自体は続けられました。
なかでも、兵庫県農会は農商省から推薦、派遣された石原治良(いしはらはるよし:兵庫県農会主事、大日本聯合青年団主事、農村更生協会嘱託)が、緻密な調査を行ったうえで結果をわかりやすく資料化し、恐慌前から恐慌現在までのデータを比較しています(資料8)。
1932年2月、兵庫県農会は山脇会長の下、「自力更生精神を振起高揚して未曽有の難局に立ち向か」おうと農民を鼓舞する檄文を、実に26,000枚印刷して県内外の農村関係者、報道機関等に送りました。檄文には石原作成の「昭和四・五年の農業純益比較」(資料9)のグラフも載せて、いかに昭和5年から始まった恐慌の影響が大きいかを可視化しています。
さらに、これと別に、「最近数ヶ年間ニ於ケル農業純収入ノ漸減状況」と題したグラフを掲げた檄文3600枚も作成し、総理大臣はじめ政府や各界の要人に送りました。石原が兵庫県農会の農家経済調査で得たデータを元にして作ったグラフは、農家の収入が激減しているにもかかわらず税の額は変わらず、年を追うごとに負担が過重になっていることを如実に示しています(資料10)。
この税負担を何とかしてくれ、と政府を突き上げるのが「請願運動」や小作争議。自力更生運動がこれらと決定的に異なるのは、だから農村、農民自らが村の更生のために努力しよう、と村内各人に呼びかけていることです。
その具体的で大規模なイベントを、檄文送付から3ヶ月後の5月7日から12日までの6日間、県内6個所で「農人自力更生祭」と銘打って開催しています。未曽有の恐慌を農村農家の自力更生の実践で乗り切ろう、と山脇会長が熱弁をふるい、長島貞幹事がそのための具体的な実践内容をわかりやすく説きました。そして最後に参加者全員で誓いの言葉を斉唱し、長島発案の「自力更生農人形」を受け取って散会しています(資料11)。
兵庫県農会が自力更生運動を全国にも広げよう(資料12)と政府にアピールするまでもなく、むしろ政府にとって渡りに船のような農民自らの農村再建活動、更生祭には小平権一が祝電を打っています。
更生祭終了3日後に五・一五事件が起こり、斉藤内閣が62臨時議会を機に請願運動等で救農対策を迫られたことは上述の通りです。農林省にとっては、「農山漁村経済更生運動」を提案する絶妙の機会でした。
農山漁村経済更生計画樹立方針
第63臨時議会が閉会してまもなくの9月27日に経済更生運動担当の経済更生部が農林省内に設置され、小平権一が初代の部長に任じられました。できるだけ多くの村に自力更生計画を立てさせ、貧窮からの脱却をめざすこと。そのための指針を、まずは10月6日に農林省訓令第二号(資料13)として発令し、12月2日に80頁に及ぶ「農山漁村経済更生計画樹立方針」で具体的に示しました(資料14)。
1932年秋から冬にかけてのこの時期、満蒙開拓の歴史では第一次武装移民が「匪賊」の襲撃で入植地に入れず、佳斯木で越冬せざるをえないという先の見えない段階でした。農業移民の側面もありながら担当は拓務省で、農林省内は反対派が多数で省としてはかかわっていません。ことのほか熱心な満蒙開拓推進派の石黒が次官であることは少し不思議です。
青少年義勇軍との関係を見つけるのはやや難しい段階ですが、農林省訓令第二号の末尾にその萌芽を見ることができます。「精神教化運動トノ連絡協調ヲ密ニシ官民一致大ニ自奮更生ノ民風ヲ興起」させるべき、として国民精神の教化をめざしている点です(資料15)。「満蒙開拓青少年義勇軍編成ニ関スル建白書」の文脈4に通じます(第19号PDF版4頁)。
石原治良は大日本聯合青年団の主事でもありました。農業恐慌は農村青年団にとって切実な我がことであり、農山漁村青年団にも更生運動が要請されて、1932年のうちに大日本聯合青年団に更生運動部が新設されました。
石黒の農林次官退官後に農村更生協会が設立されると、石原のみならず大日本聯合青年団と農村更生協会の役員を兼ねる者は多く、その理由としては、「農村更生運動における両団体の連携を考えてのことと思われ」ました(石原「農村更生協会とその取組んだ事業」)。
大日本聯合青年団理事長の香坂昌康が「建白書」の署名者の一人であることは、きわめて自然だったのです。
農民道場(1934~)
農林省訓令第二号末尾には、また、計画が画餅に帰さないために、「理想ニ走ラズ性急ニ流レズ中心人物ニ克ク其ノ人ヲ得」ることが求められています。経済更生運動2年目の1933年冬、農村の中堅人物を養成する「農民道場」の設置が認められ、翌34年にとりあえず20道場が新設されました。以下は竹山祐太郎の回顧です。
ここに加藤完治が登場し、まずは経済更生運動との接点ができました。石黒は日本国民高等学校協会理事長で同校には並々ならない思い入れがありますが、教育内容については加藤に全面的に任せていました(第7号)。
自ら鍬を持って実践教育を行う加藤の評価は高く、けっして石黒の身びいきなどではありません(資料16)。そして、少し後のことながら、「多くの困難を排し、今日の国策満洲農業移民に至る」道を切り開いた加藤に絶大な賛辞が送られています。満洲移民の国策化で農民道場は移民訓練の場に変わっていくのです。
満洲移住協会(1936.1~、1937.4.30~)
農民道場がつくられ、農村更生協会が開設された1934年は、救農事業の応急対策である土木事業の3年目で、この年をもって終了しますが、農業恐慌はまだ続いています。
恒常対策の経済更生運動は、計画書をつくっても実践する予算のない村も多く、文字通り、画餅に帰していました。小平部長が高橋是清蔵相を説き伏せたと伝わる特別助成制度が1936年度から始まり、条件を満たせば平均で1万5千円の助成金が出ることになりました。 この年に広田内閣の宣言で満洲移民が国策化するとともに大量送出の時代が始まります。助成金支給の条件の一つに分村計画を加えたのは「農村更生協会の杉野忠夫らの提唱」(楠本雅弘前掲書)でした。
同時期の36年1月に満洲移住協会が開設しましたが、当初は拓務省と満洲拓殖会社の間の橋渡し役程度の役割でした。翌37年4月30日、財団法人に改組し、半年後に「建白書」に署名する6名中5名が理事に名を連ねました。
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