VOL.2 <「義勇軍」のルーツ>
NO.4 武装移民(その2 第一次武装移民)
※煩雑を避けるため、”満洲”を””抜きで満洲と表記します
日本国民高等学校北大営分校の建設
山形県の退役軍人角田一郎が持ち込んだ武装移民案をもとにして、加藤完治、石黒忠篤、宗光彦が作成した六千人移民案が閣議で却下された1932 年3 月、加藤は通過するものと信じ切って移民実施に備えようと考え渡満していました。石黒からの電報で不採用を知りますが、「何らの失望落胆もせずに元気よく」関東軍参謀の石原完爾に面会し、「将来の移民決行の準備教育」(「武装移民生い立ちの記」)のために北大営の一部を借用することに成功します。
二人はこの時が初対面ですが、石原はすでに加藤の名を知っていました。関東軍が今後の満洲経済政策全般について考える目的で1 月に開催した会議(「満蒙に於ける法制及経済政策諮問会議」)の席上で、参加を要請した那須皓、橋本傳左衛門両帝国大学教授から、農業移民の有効性とその教育訓練の最適任者として加藤完治の名が力説強調されていたからです。
借用にあたって手続き上いくらかの紆余曲折を経ながらも、5 月にはかつて張学良軍の兵営だった奉天市北部の北大営の一角に日本国民高等学校北大営分校を開校します。満洲事変勃発の日に戦場になった一帯ですから、掘り起こせば死骸が現れ、雷管が破裂するといった荒れ地の整備からの学校づくりでした。文字通りの先遣隊の役割を担ったのは公主嶺農業実習所長の宗です。奉天北方200 ㎞の地から実習生数人を率いて乗り込み、整地作業に取り組みました。
まもなく、友部の日本国民高等学校から数次に分けて生徒が送られます。加藤完治の記録によれば、同校職員の酒井章平がまず15 人ほど引率し、続いて野々山彦鎰(ののやまひこいつ)が数十名を「連れて行った」ことになっています。一方、桑島節郎(1974 年に当時の生存者などにも取材して『満洲武装移民』を脱稿、5 年後に加筆して教育社から出版、友部在住)によれば先遣隊は酒井、野々山と佐藤修の幹部職員3 人に引率された12 人の同校生徒で、続く「数十名」の詳細は6 月から7 月にかけて3 回に分けて送られた各20 名ほどです。(右参照)
当事者である加藤の記憶、記録より、「歴史家でもない一無名の者」を自認する桑島の著作に信を置くことに疑問を感じる方もあるかも知れませんが、「満洲移民の歴史の空白を解明するのは自分だ」という「野心」を抱いて、酒井、佐藤はじめ執筆当時健在だった当事者多数から直接取材している桑島の記述に多くのことを気づかされています。反面、加藤の書いたものには多分に誇張や思い込みがあり、加藤の思いはうかがえても必ずしも事実を正確に伝えるものでないことは、この一事に限りません。
いずれにしろ、10 月に渡満する第一次武装移民には北大営分校の訓練生がおよそ70 名加わるのですが、そ
れがこの時の青年達であることに違いはありません。
石原完爾の構想
関東軍司令部付満洲国軍軍事顧問として「掃匪」軍の指揮を執っていた東宮鐵男(とうみやかねお)は、日中戦争が始まってまもなくの1937 年11 月に戦死しますが、死後早い時期から「移民の父」と称されています。今後詳述する饒河少年隊の創設者であり義勇軍史に欠かせない人物ですが、一般開拓団の歴史においても加藤完治とともに武装移民の創設者、推進者として語られることが多い陸軍の将校(戦死後大佐)です。
確かに、第一次武装移民は東宮の6 月10日付関東軍参謀長宛具申書(右参照)に重なる事項も多く、東宮構想が基本計画の一端を担っていることは確かです。ただ、一介の関東軍の下級将校が独断で移民案を作成し、実施を強行するなどあり得ない話です。「東宮大尉と加藤氏の提携」(『満洲開拓史』)など、しばしば東宮と加藤が武装移民を牽引したかのような表現に出会いますが、実行役としての両者の獅子奮迅(ししふんじん)ぶりは疑いようがないにしても、正確に事実を伝えているわけではありません。
実際、加藤自身が東宮の具申書作成のいきさつを、「始終石原さんの命令を受けて、いろいろ活動もし、調べ」た結果と述懐しています(「武装移民生い立ちの記」)。桑島前掲書はよりわかりやすく、「石原参謀は昭和7年3 月18 日、吉林剿匪軍(きつりんそうひぐん)を率いて依蘭(いらん)方面の反吉林軍の討伐に向かわんとする東宮大尉を、長春から奉天の軍司令部に招き、東宮に対して吉林軍屯墾化の秘密構想を打ち明け、その調査命令を命じ」たと記しています。
右は前号で紹介した『四月以降に於ける関東軍掃匪の状況』に掲載されている挿図の一枚です。前号掲載図は「四月下旬」ですから、およそ1 ヶ月後の満洲事変の戦闘状況になるわけですが、「反吉林軍」で括られる反満抗日勢力の勢いは衰えていません。一方で吉林省に拠点をもつ在地有力層が続々恭順の意を示し、吉林軍として関東軍の指揮下に入ります。石原は軍隊としては役に立たないとみなした吉林軍勢を半兵半農の屯墾隊としてソ満国境沿いに配置する構想を抱き、その実現可能性を東宮に探らせたのでした。
上官に忠実でリサーチ力の高い東宮が調査の結果上申した意見書が、「在郷軍人をもって吉林屯墾軍基幹隊を編成し、吉林省東北地方に永久駐屯せしむる件」でした。基幹隊とは、油断ならない吉林屯墾隊を監
督する日本人部隊のことで、なるべく最近まで兵役にあった除隊間もない在郷軍人によって編成すべきと具申しています。
加藤完治と東宮鐵男
東宮の具申書は関東軍トップの橋本虎之助参謀長宛です。石原は東宮から受け取った具申書を参謀長はじめ主だった幹部にアピールしながら提出しましたが、「時期尚早」と却下され、自身で保管していました。そこに現れたのが加藤完治でした。
今回の加藤の石原訪問の目的は、移民入植地探しの協力依頼でした。日本国民高等学校北大営分校は六千人移民案が潰れた直後に開校したため、この年(1932 年)は200 人の青年を募集し、1 年かけて「充分鍛え、移民の先駆者を養成」する考えでした。
しかし、五・一五事件の発生で状況が一変したのです。それまでの拓務省は、海外移民といえばブラジルで、生駒高常(いこまたかつね)管理局長だけが満洲移民に関心を持っているといった状況でした。ところが、事件後に成立した斎藤実(さいとうまこと)内閣の拓務大臣永井柳太郎は満洲移民に熱心で、生駒に対して移民案の再提出を命じたのです。そこで生駒は、また閣議で否決されてはかなわないとばかり、新たな案に盛り込む移民候補地を探してくるように加藤に要請したというわけです。
6 月半ば(加藤の記述では7 月)に石原を訪ねる前に、加藤は自分が推薦して拓務省の技師に採用されていた中村孝二郎から、入植適地の候補を確認していました。中村は、「鄭家屯(ていかとん)から通遼(つうりょう)に行くと、途中の銭家店(せんかてん)に張学良の土地がある」からそれを全部もらえばいいが、プランを作って少しずつの方がいい、「他の人に言うとできないから司令官だけに話してや」ったほうがいい、などと助言しました。
中村の薦める候補地は南満から内蒙古の東端一帯の地域です。「匪賊」の心配の少ない地域、けれど、中村のアドバイスに反して
石原にも面会し、石原に東宮の具申案を見せられて「これは実にいい」と応じたことで、「匪賊の跋扈」する北満、依蘭方面の武装移民案が急速かつ強力に推し進められることになるのです。
石原の仲介で加藤・東宮が初対面したのは6 月14 日(加藤は7 月14 日と書くがその後の経緯から6 月の方が矛盾が少ない)、8 月下旬には拓務省が再提出した関連予算案が議会を通過し、10 月初旬には第一次武装移民団が渡満するという電光石火の荒業(あらわざ)です。関東軍は兵力不足を補うための屯墾軍、日本側は農村の過剰人口整理のための海外移民、という「いささか食い違う両者の要求を適当に塩梅、調和」(『満洲開拓史』)してどのような移民案が作成されたのか、見ていきます。
強靱な反満抗日勢力
加藤等の「六千人移民案」は「移住土地」として、満鉄や満州に進出している日本企業関連の土地を想定していますが、それでもなお「匪賊」の襲撃は予想され、軍隊による絶滅は難しいので移民自ら武装して屯田兵を兼ねることを提唱しています。
3 月に拓務省が「満蒙移植民計画」として閣議に提出し、あっさり却下されたことはすでに述べた通りです。忘れてならないのは、この時期は満州事変という名の戦争がますます激しくなっているという事実です。
右は「昭和7 年6 月3 日」付で陸軍省調査班がまとめた「四月以降に於ける関東軍掃匪の情況」です。反満抗日勢力との激しい戦闘状況を綴り、「昨年以来の満州事変は、満蒙問題解決の序曲に過ぎ」ないのだから、日本国民として「不退転の決意を更に強化し新満洲国を扶けて善隣の誠を盡」くすべきと結んでいます(右資料下段)。「取扱注意」の文字は物々しく、加藤等が戦場の実態を知らされたとは思えません。
一方の関東軍にとっても抗日勢力の強靱さは計算外だったようです。兵隊である屯田兵が「匪賊」を絶滅させたのち軍隊経験のない農業移民を入植させる移民案を立てたのが2月、「この時点では、まだ、在満中国人の民族抵抗運動の強靱性を感得できず、したがって、農業移民のもつ治安維持的役割をそれほど重視していなかった」(浅田喬二「満州農業移民政策の立案過程」)と評されています。
加藤等の移民案と関東軍統治部の移民案は同時期ながら別個に作成され、その時点までに加藤が関東軍と直接交わる機会はありませんでした。
けれど、盟友の那須皓や橋本傳左衛門を通して、加藤完治と日本国民高等学校の存在はしっかりと伝えられ、関東軍移民案「第四日本人移民ニ対スル応急準備事項」の「移民訓練所ノ準備」には、「一般移民ニツキテハ茨城県友部所在国民高等学校其他北海道八雲国民高等学校、山形自治講習所等ノ機関ト連絡ヲト」ると明記されました。
2 月作成の移民案はともにひとまず棚上げされますが、武装移民案は「進化変貌」を遂げていくことになるのです。
第一次武装移民の送出まで
奉天の加藤の宿泊先で明け方まで話し込んだという二人の間で、それぞれが抱いている満洲植民構想の最初のすり合わせが行われています。
満洲の過酷な植民活動は日本人には無理だからまず「朝鮮の同胞」で、と主張する東宮に対し、「それはもっての外の間違い」で導きようで日本人でもできると反駁する加藤に、東宮はあっさり妥協します。一方、牡丹江から東の樺川(かせん)県や依蘭県などに3 万人もの匪賊がうろついているから、集団移民自ら治安維持を図らなければならないと東宮が言えば、一集団どれくらい必要かと加藤が返し、300 人で10 個所3000 人と東宮が応えると、「ならば少し多くして一集団500人」案を立てる、といった調子です。
そして、「双方の意見が合ったので、ぜひ決行しようという事にな」り、互いの役割分担を決め、東宮は「関東軍とも連絡して」宿舎や土地の準備を、加藤は「500 人の在郷軍人を内地で集めて、それをハルピンに9 月末日までに集結すること」を約束し合ったのでした。
こうして、加藤にとって積年の夢である満洲移民の実行に、関東軍との一体化が必然になりました。加藤自身の記録を読む限り、帰国してから第一次移民送出決定までの加藤の獅子奮迅ぶりには驚かされるばかりです。参謀本部や陸軍省に乗り込んで長官、次官に理解協力を仰ぐかと思えば、斉藤首相、後藤文夫農林大臣などの閣僚にも直談判、加藤自身が「ただ我武者羅にやって、どこをどう飛び回ったか何をしたか」覚えていないほどでした。
東宮もまた、入植候補地を実地にまわったり情報の収集に余念がなく、関東軍参謀長宛てにも何度か意見書を提出しています。けれど、司令部付で満洲国軍に出向している立場の東宮にそうした権限が認められていたとは考えにくく、「石原中佐の意向がすでに移民実施許可の方針に決定しており、ただ参謀長の決意を促す資料として一応提出させた」(『満洲開拓史』)のでした。
6 月の頃には関東軍上層部に歯牙にもかけられなかった東宮の移民(吉林屯墾軍基幹隊)案でしたが、7 月半ばまでに関東軍案に盛り込まれ、同月26 日には陸軍省から拓務省に「三姓地方屯田兵式移民入植地予算提出方の件」が通牒され両省のパイプが公式につながります。
とはいえ、東宮が最終的に永豊鎮(えいほうちん、のちの弥栄村)を第一次武装移民の入植地に選定するのはこのあとです。東宮が永豊鎮に定めた理由(右上参照)を「拓務省が読んだなら驚いて、おそらくは移民の送出を中止した」(桑島節郎『満洲武装移民』)と思われるほど、本来は東宮・関東軍の武装移民構想と加藤・拓務省構想の間に大きな乖離(かいり)があったのです。拓務省の「北満洲方面に対する在郷軍人移民選定要領」は右の通りです。
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