「満蒙開拓青少年義勇軍」小史第8号(一條三子)

VOL.2 <「義勇軍」のルーツ>

NO.3 武装移民(その1 満洲事変勃発直後)

※煩雑を避けるため、”満洲”を””抜きで満洲と表記します

薄まる一般開拓団の軍事色

 「武装移民」と聞いて想起するのは、1932(昭和7)年10 月に始まるおとなの農業開拓団の、第一次と第二次の弥栄(いやさか)開拓団と千振(ちぶり)開拓団ではないでしょうか。実際、両開拓団は「武装移民」のほか「自衛移民」、また現地では「屯墾(とんこん)大隊」などとも呼ばれ、小銃等のほか迫撃砲まで携行し、募集の対象は兵役を終えた在郷軍人に限られていました。

 けれど、その後は軍事色がどんどん薄められていきます。第三次では在郷軍人以外にも対象を広げ、現役の農業従事者であることを応募資格の最初にあげています。第四次になると、労働力になる家族の招致を奨励し、農業開拓団としての体裁が整いつつあることをうかがわせるまでになりました。募集事務を頼ってきた各地の在郷軍人会に替わり、拓務省が前面に出て各地方自治体に直接指示するようになるのもこの時からです。

 『満洲開拓史』によれば、1935 年の第四次までが、国策化に向けた「試験移民期」です。ここまでの募集数は500 人でしたが、第五次で倍増します。そして、1936 年に広田弘毅(ひろたこうき)内閣が「20 ヶ年百万戸500 万人」の満洲移民計画を宣言し、翌年、国策として大量移民が始まるのです(第一期5 ヶ年計画)。右にその間の六次にわたる経緯をまとめました。

 

「右手に鍬、左手に銃」

 その大量移民開始の1937 年に、満蒙開拓青少年義勇軍制度が急速に国策として整備されていきます。右の加藤完治の文章は、加藤はじめ6 人の義勇軍推進者が同年11 月3 日に「満蒙開拓青少年義勇軍編成二関スル建白書」(後述)を政府要人に提出したまさにその時期に書いたものです。注目すべきワードがあります。

 「右手に鍬、左手に銃」を持ち、「演習地は匪賊の襲来するところ」が義勇軍の「教育訓練」の場、というくだりです。おとなの開拓団は「武装解除」したのに、なぜ? と思いませんか。

 本稿第2 号(VOL.1 NO.2 「都市と農村」)で紹介した上笙一郎は義勇軍を「片手に鍬、片手に銃」を持つイメージで、「軍人になりたいという夢を満たすに充分だった」と当時の思いを振り返っています。埼玉県では『東京日日新聞埼玉版』が、第一次の義勇軍を募集するに先だって、「義勇軍に編成される開拓少年移民は文字通り『右手に武器、左手に鍬を持つ』真に満蒙の礎石になるもの」と報じています(1938.2.1)。

満洲事変勃発直後の移民案

 つまり、義勇軍は武装した未成年移民なのです。であるならば、おとなの開拓団が資格として軍人経験を問われなくなったのは満洲の移住地が安全になったから、ではなく、あいかわらず襲来する「匪賊」に備える役割を後退させたから、そしてその埋め合わせを少年移民に託したから、と想定することも可能ではないでしょうか。

 そう考えるなら、1932 年10 月の第一次武装移民の段階で、立案・遂行の当事者である「加藤完治・東宮鐵男グループ」や関東軍、拓務省等が意識していたと否とに関わらず、すでに青少年義勇軍構想は移民計画の中に胚胎していたと言えるのではないでしょうか。そう考える背景を以下に示します。

 

① 加藤完治グループの「六千人移民案」

 最初に満洲事変のきっかけとなった柳条湖事件(1931.9.18)から数ヶ月後のきわめて初期の満洲移民案を2 例紹介します。

 ひとつめは加藤完治、石黒忠篤、宗光彦がまとめた「満蒙植民事業計画書」(右資料、「六千人移民案」)です。宗も大学の同窓で加藤とは親友同士、農学部卒業後満鉄に入社し、公主嶺農業実習所に勤務していましたから現地情報に詳しく、「移住土地」などは宗の提案と思われます。資料の出典は『開拓加藤完治全集第五巻』、括弧付けで「加藤完治原案」とあるのがいかにも加藤らしいのですが、加藤自身三人で「色々相談をして」「作成した」と書いています(「武装移民生い立ちの記」)。

 そもそもこの移民案にはお手本がありました。加藤は山形県自治講習所時代から海外植民の必要を高唱し、1925(大正14)年には講習所の卒業生等山形の青年を朝鮮全羅北道にはじめて集団入植させています。そうした加藤の実績は、山形県内に広く知れ渡っていました。

 山形県東村山郡大郷村(現山形市)の農村指導者角田(すみた)一郎が、「満蒙経営大綱」と題した自説の満洲武装移民案を携えて在京していた加藤のもとを訪ねてきたのは、1932 年正月早々のことでした。

 角田はシベリヤ出兵に従軍した経験もある退役軍人で、出兵時には北満の実情を見聞しています。病を得て軍籍を離れ故郷で帰農、折しも農業恐慌の吹き荒れる時代に重なりました。満洲事変が起こるや千載一遇のチャンスとばかり、東北農村の窮状を満蒙移民で解決しようと大綱を一気に書きあげ、右のような満洲移民構想をまとめたのでした。

② 関東軍の移民案

 加藤等は「六千人移民案」を柳条湖事件から5 ヶ月足らずの1932 年2 月に作成し、拓務省に提出して年度末の議会に諮り予算化をめざしましたが、閣議の内諾さえ得られませんでした。前年末に若槻内閣から交替したばかりの犬養内閣の大蔵大臣、高橋是清(たかはしこれきよ)が移民反対論者だったから、とも仄聞(そくぶん)されます。

 けれど、日露戦争に勝利して関東州や満鉄沿線に権益を得てからすでに四半世紀経ってなお、満洲に日本人移民は定着できていないのが現状でした。

 満洲事変は満洲の兵站(へいたん)基地化をめざす関東軍の謀略によって始められたものの、それを追認、支持していく陸軍中央も関東軍自身も、満洲を領有して朝鮮のように完全な植民地にするか、中国政府と切り離し独立国家を装った傀儡政権を建てるか、なかなか決められないでいました。

 けれど、国際潮流はもはや他国に対する新たな植民地支配を許さず、満洲も独立国家の体裁を整えていくことになります。

 柳条湖事件から3 ヶ月後の12 月、関東軍に統治部が新設され、翌年2 月に統治部として移民案を複数決定します。時あたかも加藤等の「六千人移民案」と同時期でした。

 「関東軍統治部」の移民案は7 文書に分けられています。「第一移民方策案」から「第四日本人移民ニ対スル応急準備事項」までが一般日本人移民に関する文書(「第二日本人移民案要綱」、「第三日本人移民案要綱説明書」、原案では「普通移民」とも表現)、そして、「第五屯田兵制移民案要綱」から「第七屯田兵村設定ニ対スル準備事項」までが「屯田兵」すなわち兵隊による農業移民制度に関する文書です(「第六屯田兵制移民案要綱説明書」)。7 文書とも表紙右上に大きく「極秘」のスタンプが押されています(右上段参照)。

 最初の「移民方策案」で、満洲を独立国家としたあとの移民政策の基本方針を述べています。「極力邦人農家の移植を奨励助長」する一方で、清朝衰退期から大挙満洲に流入してきた中国人の「多くは窮民の群にして満蒙の産業開発、文化向上」に寄与しないのでできるだけ「門戸を鎖し」、朝鮮人は面倒を見るべき関係にはあるが水田経営の能力が活用できる程度だから「来る者を拒まざる程度に止め」るべきというのです(右中段史料)。

 そうは言っても今後とも中国、朝鮮からの満洲移民をおさえることは不可能、ならば少しでも早く一人でも多くの日本人を定着させることが肝要、という発想は「六千人移民案」とも共通しますが、異なるのは農業移民と屯田兵を分けていることです。

 関東軍が農業移民の大量定着をめざす地域は東支鉄道以北の北満、広大で肥沃な土地は開拓の余地が大きいうえ、国防上の見地からも日本人を多く移植させたいのです。けれどそこはまだ戦闘渦中の地、まずは屯田兵移民によって治安を落ちつかせたのち、「普通移民」を送出定着させる計画です。

強靱な反満抗日勢力

 加藤等の「六千人移民案」は「移住土地」として、満鉄や満州に進出している日本企業関連の土地を想定していますが、それでもなお「匪賊」の襲撃は予想され、軍隊による絶滅は難しいので移民自ら武装して屯田兵を兼ねることを提唱しています。

 3 月に拓務省が「満蒙移植民計画」として閣議に提出し、あっさり却下されたことはすでに述べた通りです。忘れてならないのは、この時期は満州事変という名の戦争がますます激しくなっているという事実です。

 右は「昭和7 年6 月3 日」付で陸軍省調査班がまとめた「四月以降に於ける関東軍掃匪の情況」です。反満抗日勢力との激しい戦闘状況を綴り、「昨年以来の満州事変は、満蒙問題解決の序曲に過ぎ」ないのだから、日本国民として「不退転の決意を更に強化し新満洲国を扶けて善隣の誠を盡」くすべきと結んでいます(右資料下段)。「取扱注意」の文字は物々しく、加藤等が戦場の実態を知らされたとは思えません。

 一方の関東軍にとっても抗日勢力の強靱さは計算外だったようです。兵隊である屯田兵が「匪賊」を絶滅させたのち軍隊経験のない農業移民を入植させる移民案を立てたのが2月、「この時点では、まだ、在満中国人の民族抵抗運動の強靱性を感得できず、したがって、農業移民のもつ治安維持的役割をそれほど重視していなかった」(浅田喬二「満州農業移民政策の立案過程」)と評されています。

 加藤等の移民案と関東軍統治部の移民案は同時期ながら別個に作成され、その時点までに加藤が関東軍と直接交わる機会はありませんでした。

 けれど、盟友の那須皓や橋本傳左衛門を通して、加藤完治と日本国民高等学校の存在はしっかりと伝えられ、関東軍移民案「第四日本人移民ニ対スル応急準備事項」の「移民訓練所ノ準備」には、「一般移民ニツキテハ茨城県友部所在国民高等学校其他北海道八雲国民高等学校、山形自治講習所等ノ機関ト連絡ヲト」ると明記されました。

 2 月作成の移民案はともにひとまず棚上げされますが、武装移民案は「進化変貌」を遂げていくことになるのです。

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