「満蒙開拓青少年義勇軍」小史第7号(一條三子)

VOL.2 <「義勇軍」のルーツ>

NO.2 日本国民高等学校

※煩雑を避けるため、”満洲”を””抜きで満洲と表記します

日本国民高等学校のルーツ

 前号で蒙開拓青少年義勇軍のルーツは日本国民高等学校北大営の開設時(1932.6)まで溯(さかのぼ)ることができると書きました。であるならば、本校である日本国民高等学校の創設(1925.12.22 認可、1926.2.1 開校)をもってルーツにしてもよさそうですが、さすがに第一次満蒙開拓団送出の気配さえない時期の開校、直接のルーツとして提言するには無理がありすぎます。

 ただ、日本国民高等学校と満洲移民全般や義勇軍との関係、また内原訓練所との関係などについては誤解も多く、開校の経緯からたどることは、義勇軍の歴史に対する理解を助けることになると思います。

 

 右の『日本農業年鑑』1939 年版によれば、「国民高等学校」と「私塾」は同等に扱われ、それらは「運動」と称されるようなブームを起こし、その端緒として山形県立自治講習所が紹介されています(発行元の富民協会は大阪毎日新聞の本山彦一が1927 年に設立した財団法人)。

 1915(大正4)年12 月、山形県立自治講習所の初代所長に招かれたのが加藤完治です。1925 年12 月、10 年の節目で辞職しますが、それは同時期に設立が認可された日本国民高等学校の校長に就くためです。

 日本国民高等学校は、加藤が長年抱いてきた「日本人としての理想信仰を明確に農村青年に植え付ける」(加藤完治「日本農村教育」)目的でつくられた農民子弟の教育機関です。「加藤を理解し協力を惜しまなかった」(『満州開拓と青少年義勇軍創設と訓練』)東京帝大同窓の石黒忠篤や那須皓(なすしろし)、小平権一(こだいらごんいち)、橋本傳左衛門等が石黒邸に集まり、教育経営などに関して加藤を中心に侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を戦わせ、社団法人日本国民高等学校協会を設立し、開校にこぎ着けたのでした。

 右の小平権一の回想冒頭に書かれている通り、戦前の農政を代表する石黒忠篤も日本国民高等学校に対する思い入れには並々ならないものがありました。石黒は農

林省の次官まで上りつめた官僚ですが、1934(昭和9)年に政策上の考えの違いから退官します。その後は農村更生協会の理事長など基本的には在野にありましたが、1940

年の第二次近衛内閣で農林大臣、敗戦時の鈴木内閣で農商務大臣に乞われて就任するなど、陰に陽に農政に強力な影響力を持ち続けた人物です。加藤に対する信頼は厚

く、同校の教育内容も経営もいっさい任せていたといいますが、政治的立場とそれにともなう責任の重さについては加藤の上にあったことは言うまでもないでしょう。

 ところで、石黒の「国民高等学校」構想はデンマークのそれに倣おうとしたものです。もちろん他の面々も同じ思いです。実は、上記の山形県立自治講習所も、それに続

いた各地各様の国民高等学校もお手本はデンマークの国民高等学校です。したがって、日本国民高等学校のルーツは山形県立自治講習所ということになるのです。

デンマークの国民高等学校

 国民高等学校はデンマーク語のフォルケホイスコーレの直訳(フォルケは民衆、ホイは高い、スコーレは学校)です。右の書籍の表紙にあるように、今も継続している市民の学習の場で、日本を含めて世界各地にさまざまな組織があるようです。そうした各地の傘下関連機関を紹介する一般社団法人IFAS のサイト(info@ifas-japan.com)に、フォルケホイスコーレの創設の経緯が右(緑枠)のように説明されてい

ます。

 シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争は、デンマークが当時のプロイセンなどと戦った2 度にわたる戦争です(第一次: 1848~52 年、第二次: 1864)。いずれもデンマークが敗れました。最初の敗戦では領土は現状維持されましたが、第二次でシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国がともにプロイセンに割譲され、デンマークは閉塞感に包まれました。国民の大部分を占める農民の労働意欲は低下し、おのずと農業生産は減退しました。

 このような時期に、「民衆の民衆による民衆のための成人教育機関」と位置付けられていたフォルケホイスコーレで学ぼうとする農民≒国民が激増したのです。もちろん入学試験などありません。優れた指導者の存在や、生徒同士の学びあいが重要視されました。農閑期に寄宿舎生活を行い、歴史教育や農業経営など、デンマーク人として、農民として、の知識教養を修得することで、大いに自信を取り戻していきました。さらには、協同組合(産業組合)システムを機能化させるなど、停滞していた農村の復興と生産倍増も実現させたのでした。

 こうしたデンマークのフォルケホイスコーレがヨーロッパ周辺各国に知れ渡るきっかけが、ドイツ人A.H.ホルマンの書いた『国民高等学校と農民文明』です。日本でも大学院生だった那須皓が農業経済学の教官矢作栄蔵(やはぎえいぞう)に勧められて、1913 年に翻訳、出版しました。

 山形県立自治講習所を構想したのは、県庶務課長の藤井武です。県下の農村振興には村の中心になる人物の養成が不可欠と考え、大学時代の恩師矢作栄蔵に相談したところ、那須の訳した上記書を渡され、デンマークに倣った国民高等学校の創設を決意したのでした。

 右の「山形縣立自治講習所設置ノ件」が上述した藤井の描く講習所設置の目的です。講習科目にある「郷土史」や「産業組合」などに、デンマーク国民高等学校の影響が読み取れます。けれど、所長に迎えた加藤によって講習科目は全面リニューアルすることになりました。

 所長を引き受けるにあたって、加藤は藤井に対して、「僕の好きにやって宜しいか」と迫りました。藤井のやり方では「中堅人物養成という目的は達せられない。教壇に立って只自治の話とか、或いは公民教育のやうなことをやったからと謂って、そんなことをして居たら農村の三百代言ができてしまう位のものだ」と批判し、「それよりも黙って朝から晩まで労働労働で行けば、少しは其の目的を達し得る」と主張したのです。

 かねてからの予定通り、クリスチャンの藤井は自治講習所の開所を見届けたのち辞職して伝道の道に入り、自治講習所は加藤が理想とする「職員生徒が畑の真ん中で大和魂を鍛錬陶冶する道場」(『日本農村教育』)となったのでした。

日本国民高等学校の概要

 右は日本農業実践学園(元日本国民高等学校)内にある加藤完治記念館のパンフレットの一部です。写真上は山形県立自治講習所の校舎、大正天皇即位の式典を祝う事業の一環として県が建てただけあって立派です。

 けれど、加藤にとって肝腎な農場はありません。そのため当初は山形市内に1.5 ㌶ほどの土地を借りましたが到底足りず、1920(大正9)年には葉山山麓の元軍用地65 ㌶ほどを借り、開墾のはじめからを実習教育の場としたのです。写真下の大高根開墾地がそれです。

 自治講習所時代の加藤は「真に農村青年の友として彼等に堅き信念を授けつつ自ら青年とともに鍬を取り、荒地を開墾すること十年、大和魂の信念に燃ゆる人格者にして純情の士」(野尻重雄『農村教育と農民道場』1939)などと絶賛されるほど、自ら宣言した通りの実践教育に打ち込みました。

 絶賛した野尻教授(当時は東京高等師範学校教授)の目に日本国民高等学校の創設は、石黒忠篤等加藤の親友が加藤の「熱と力と信念に信頼」し、「此種の学校の存在の意義を痛感せられ、同氏の為に教育の効果をより多からしむる目的」と映ったようです。日本国民高等学校が決して加藤ひとりの構想や責任に帰するものでないことは冒頭述べた通りですが、山形一県から日本全国に鍛錬陶冶すべき対象を広げたことは確かです。

 下に示した「日本国民高等学校概要」によれば、校地は茨城県西茨城郡宍戸町、最寄駅は国鉄常磐線友部駅です。候補地は他にもありましたが、駅に近いこと、国立種羊場跡地で種羊場の施設を使えることが決め手になりました(『満洲開拓と青少年義勇軍』)。開設当初から40 ㌶以上の広大な農場を有し、寄宿舎も教室もみな「心身錬磨の道場」と位置付けています。

 「要旨」の最初に、国民高等学校の名称としての由来がデンマーク(丁抹)にあること、今では世界的に特定の意義を持つため日本国民高等学校もこれに拠ることを明記しています。一方で、「訓育ノ方針ハ職員生徒協力ノ真剣ナル農業労働生活ニ依ル精神錬磨」にあり、「高等煩雑」な学科指導は避けることを宣言、本場のフォルケホイスコーレとは距離を置いています。

日本国民高等学校と植民教育

 概要は続けて「募集及ヒ入学」の「希望」として、「将来農村ニ於ケル中心人物トナリ得ルモノ」と、内地及ヒ満鮮等ニ植民セントスルモノ」を先ず入学させたいとしています(右参照)。

 山形県立自治講習時代の5 年目、1920 年12 月に入所した六期生の4 人に、卒業後に帰郷しても土地がないと訴えられ、それがきっかけとなって加藤が「植民は教育の延長」と思い詰めるに到った話は有名です。

 石黒等の勧めで加藤は2 度にわたって欧米視察に出かけます。一度目は1922 年9 月から24 年1月まで、1 年4 ヶ月に及ぶ滞在期間中、熱心に欧米各国を見てまわりますが、とりわけ国民高等学校の本場デンマークでは、かの国が農業大国に発展した背景の観察に努めました。そして、農家一戸あたりの農場が平均15 ㌶という実態に驚き、出した結論が「海外植民を断行すべき」という確信でした。

 帰国して加藤が取り組んだのは、一つが山形県最上郡萩野村の旧軍馬補充部の空地の開墾、そしてもう一つが朝鮮半島に植民する目的で朝鮮開発協会をつくったことです。

 日本は1910(明治43)年に大韓帝国を併合して、朝鮮半島全土を植民地にしました。加藤にとって、「日韓合邦の実をあげて、しかる後広い天地に勇飛せんとすれば先ず我が農村の二、三男を思い切って朝鮮に植民させる必要がある」ため、渡欧前、大高根の開墾直後から朝鮮に渡って適地を探すなど活動していました(野本京子「日本の『満洲』農業移民の思想的系譜ー前史としての朝鮮移民事業に注目してー」2020)。

 このころはまだ満洲に対する具体的な動きはありませんし、まして軍との関係は見えません。けれど、概要には「満鮮等ニ植民」する者の入学を優先させるだけでなく、「経費」の項に、第一部、第二部の学生は卒業間近に「鮮満旅行ヲ課ス」ことが記されています。第二部は次三男教育、「将来拓殖民ニ従事スル者」の養成が主眼です。なお、学則(上参照)によれば第五部まで設置され、各部の教育要旨が明示されています。

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