「満蒙開拓青少年義勇軍」小史第6号(一條三子)

VOL.2 <「義勇軍」のルーツ>

NO.1 どこまで溯(さかのぼ)るべきか

※煩雑を避けるため、”満洲”を””抜きで満洲と表記します

 前回まで5 回にわたって満蒙開拓青少年義勇軍を探究するに到った動機や、探究する意義について述べてきました。今回からようやく本論に入ります。

 前回予告した通り、基本的には昨年8 月から11 月にかけて、毎月1 回、前橋市大胡で行った群馬満蒙開拓歴史研究会の学習会(以下群馬学習会)における講話内容に基づきますが、それら4 回で用いた資料等に限らず、割愛したものも含め、可能な限り具体的な事例や根拠となる史資料の紹介に努めたいと思っています。

 

 義勇軍のルーツを求めて

 右は第2 回の群馬学習会冒頭で示したスライド資料です。毎回、紙資料をA4 用紙で12 枚分配布しました。細かな文字の羅列で、私自身がウンザリしてしまいます。参加者のみなさんも同じだろうと思い、まずは目と頭を和ませてもらうために、最近ではパワーポイントの最初をこうした呼びかけスタイルにすることが多

くなりました。

 この日のタイトルは「濫觴(らんしょう:物事の起こり、起源)期」、満蒙開拓青少年義勇軍が国策化する1938(昭和13)年より前から、未成年による集団移民の先駆的事例や、制度化に向けた動きがあったことを伝えることがねらいでした。

 四段階に分け、次々とルーツを溯らせていきました。第一段階は一般に流布している考え方、第一次年隊の募集、送出を行った1938 年を起源に置いています。第二段階として、いわゆる伊拉哈(いらは)少年隊が送出された1937 年まで溯らせています。伊拉哈少年隊の役割は、嫰江(のんこう、どんこうとも。以下のんこうに統一)訓練所を中心に義勇軍の大訓練所建設にありました。したがって、ここを起源とすることはそれほど不自然ではないと言えるでしょう。

 第三段階は饒河(じょうが、ぎょうがとも。以下じょうがに統一)少年隊の最初、1934 年まで一気に3 年溯ります。饒河少年隊については、末広一郎氏の遺作となった『満蒙開拓平和通信』第7 号に寄稿した小稿、「上笙一郎(かみしょういちろう)と松島瑞巌寺(ずいがんじ)の中隊碑から読み解く満蒙開拓青少年義勇軍の歴史」にも書いたことですが、第一次と第三次ではまったく性格が異なり、第一次寮生には義勇軍制度との直接のつながりは認められません。しかし、無縁とも言い切れないので、饒河少年隊のはじめまで義勇軍の起源を遡らせてみました。伊拉哈少年隊と饒河少年隊については、次号以降で詳述することになります。

 伊拉哈少年隊や饒河少年隊は、『満洲開拓史』でも「義勇軍運動の胎動」としてかなり詳しく解説しています。したがって、これらを義勇軍のルーツととらえるか、あくまで「胎動」の段階にとどめるか、については、どちらでも、という声も聞こえてきそうで、あまり大きな議論にはならないと思っています。

 問題は、さらに第四段階として1932 年まで溯らせることが適切かどうか、です。しかも、第一次武装移民の渡満した10 月より早い6月、奉天における日本国民高等学校北大営(ほくだいえい)分校の開校をもって義勇軍のルーツにしたらどうか、と提言しているのです。

 徴兵年齢(20 才)以上の成人の農業移民の不足を補う形で始まったとされる青少年義勇軍の方が先に始まった事実はもちろんありません。にもかかわらず、ここまで溯らせたい意図を以下に述べます。

 移民訓練所の視点

 満蒙開拓青少年義勇軍を特徴づける条件が「未成年移民」であることは言うまでもありません。ただ、私はそこにもう一点、青少年義勇軍ならではの重要な特徴を付け加えたいと思うのです。

 それは、「移民訓練所」の存在です。

 前頁の群馬学習会で用いたスライド資料の最後の一枚は、「訓練所」の最初として、奉天で1932 年6 月に開校した日本国民高等学校北大営分校を紹介しています。

 直前の4 月、日本国民高等学校長加藤完治は拓務省の依頼を受けて渡満、関東軍作戦主任参謀石原完爾(いしわらかんじ)に会い、拓務省が予定する試験移民の移住地の斡旋を要請します。二人はこの時が初対面ですが、石原はすでに加藤が満洲移民に熱心な農業指導者であることを知っているので、スライド資料にある通り、「移民地には狭いが訓練所としてなら北

大営の一部を貸そう」、と応じたのでした(加藤完治「武装移民生い立ちの記」)。

 北大営は満洲事変の発端となった奉天市北部の柳条湖からほど近く、満洲を支配勢力下に置く張学良が率いる軍隊の兵営でした。事変勃発当日張学良は不在でしたが、かねて部下には関東軍に対して無抵抗不服従の方針を伝えていたため、学良軍は攻め込む関東軍を逃れて奉天を脱出、あとには戦闘であちこちが破壊された北大営の諸施設と、放置された学良軍の戦死者の死体が残されたのでした。

 関東軍から北大営借用の約束を取り付けてわずか2 ヶ月で、加藤は自らが校長を務める茨城県友部の日本国民高等学校の分校を北大営に開校します。そのあたりの詳しい経緯は次回以降で述べます。

 北大営分校の訓練生はみな20 才以上で、開校した年の10 月から始まる第一次武装移民団を皮切りに、1935 年の第四次まで毎回多数を団員として送っています。

 右の年表で示す通り、第一次青少年義勇軍送出の1938 年には一般開拓団は第七次まで進んでいます。北大営分校は哈爾浜に移転したうえで日本国民高等学校の手から離れ、満洲移住協会に移管されました。

 「義勇隊開拓団の特質」

 右は満洲国通信社が1940(昭和15)年以来編纂している『満洲開拓年鑑』の「康徳九年・昭和十七年版」の記事の一部です。第一次武装移民の送出から十年の節目にあたる年のため「特輯篇」を組み、「開拓十年」を

回顧しています。

 右の「開拓建設新相貌」は特輯Ⅱとして、40 頁近くにわたって掲載されています。その最初の話題が義勇隊開拓団で、10頁に及ぶ力の入れようです。

 義勇隊開拓団は3 年間の訓練期間を修了した義勇軍が移行して形成します。記事の冒頭、「義勇隊開拓団の特質」としてあげているのが、第一に未成年であること(文中では「純真無垢なる青年」)、そして第二が「3 ヶ年の義勇隊訓練の成果」なのです。

 一般開拓団の成人団員を「人生の既成品」であり、「日本農村の善悪混淆の臭味が滲み込んで」いると慨嘆し、その反動のごとく義勇隊開拓団には過剰なまでの期待を寄せています。その根拠の最たるものが、「3ヶ年に亘る精神的錬成の成果」というわけです。

 私の主張する訓練所の役割大なることを実証してくれた気分ではありますが、この長い文中に第一次武装移民より早期に誕生した日本国民高等学校北大営分校に触れた個所はありません。

 ところが、50 名の学生を引率して義勇軍を訪問した学校教師石山脩平の「満蒙開拓青年義勇隊教学奉仕記録」に、きわめて明確に、北大営日本国民学校の開設をもって、「今日の青年義勇隊訓練の試案」と書かれていて、我が意を得たり、というより、かえって驚きました(上記資料参照)。

 

 改めて義勇軍と訓練所について

 ところで、「教学奉仕記録」は、加藤完治の率いる日本国民高等学校の分校だからこそ北大営分校は義勇軍の「試案」、と位置付けています。その点を否定するものではありません。そのうえで、それ以上に、私は、「訓練」あるいは「訓練所」そのこと自体が満蒙開拓青少年義勇軍を満蒙開拓青少年義勇軍たらしめていると思うのです。

 もちろん、一般の開拓団も訓練をしなかったわけではありません。けれど、その訓練に原則はなく、短期間で開拓地に入植することが専らでした。第一次、第二次の武装移民の場合、第一次は岩手県六原の県立青年修養道場、山形県立自治講習所付属青年修養道場、茨城県友部の日本国民高等学校の3 個所に分かれておよそ3 週間、第二次は群馬県相馬ヶ原の陸軍演習場で一斉に30 日間の国内訓練を行ったのち渡満しています。

 一方で、上記『彌榮村史』に手記を寄せている弥栄開拓団の元村民2 名は友人同士で、北大営から第一次武装移民に合流していますが、それ以前に地元山形県の農民道場で2 週間訓練したのち茨城県の日本国民高等学校に移され、そこから奉天の北大営分校に移動、「憧れの満洲入りを果た」しています。渡満は北大営分校の開校にあわせた1932 年6 月で、10月に日本国内11 県から集められた第一次武装移民420 人余りと合流しています。北大営出身者の訓練期間は数ヶ月にも及んでいるのです。

 後年の義勇軍制度における訓練期間はさらに比較にならないほど長期間です。開拓団に移行するまで3 年もかかる、それでも戦争の激化とともに一般の開拓団の送出が困難になると、上のグラフが示すように、「満洲移民事業の全面的崩壊をどうにか防いでいた」のが、3 ヶ年の現地訓練を終えて「『満蒙開拓青少年義勇軍』から移行した『義勇隊開拓団』の存在であった」(浅田喬二「満洲農業移民政策の立案過程」)と「評価」されています。

 ただ、結果論ではあるけれど、義勇軍は年次が下るにつれ、むしろ訓練期間中の方が、関東軍にも、そし

て国内各方面からも「重宝」されています。

 そもそも、わずか8 ヶ年、八次までしか編成されなかった義勇軍の後半、第六次、第七次、第八次の3 ヶ年次隊は、訓練を修了して開拓団に移行することなく敗戦となり、混乱の渦中で多くの犠牲者を出しました。つまり、8 分の3 ヶ年、37 %の期間に義勇軍に参加した少年達は、義勇隊開拓団の団員になることなく、訓練所の訓練生の身分のままで満蒙開拓青少年義勇軍の自分史を終えたのです。

 複雑きわまりない満蒙開拓青少年義勇軍の歴史を明らかにし、その本質に迫る試みには、開拓団に移行したのち以上に、訓練所における訓練生としての段階の実態の解明に努めるありかたはきわめて有効と考える所以です。

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