「満蒙開拓青少年義勇軍」小史第5号(一條三子)

VOL.1 <「義勇軍」探究への道>

NO.5 宮城県で重なった邂逅(かいこう) ~末広一郎氏追悼~

※煩雑を避けるため、”満洲”を””抜きで満洲と表記します

 これまで4 回にわたって、次回から本論に入る「『満蒙開拓青少年義勇軍』小史」のアプローチを綴ってきた。ここまでの連載から推測するに、比企(ひき)郡4 町村の自治体史編纂事業の過程で得た情報や資料を土台として、おもには埼玉県を具体例にあげながら小史を展開するのだろう、と思われたかもしれない。

 けれど、もしそうであるくらいなら、編纂事業がすべて終わった2004 年を最後に義勇軍調査も幕引きしていたと思う。実際、教員を定年退職した2016 年3 月までの10 余年の間、多少義勇軍に言及した文章を書いたことはあるが調査を進展させることはほとんどなかった。

 今になって義勇軍調査をいわば再開できた背景には、幸運としか言いようのない邂逅があった。邂逅は次の邂逅を招き、それらは埼玉県の外での出来事だったために、他県の義勇軍との比較という新たな視点も得ることになった。

 

『南郷町史』との邂逅

 埼玉県での編纂事業たけなわの2001 年8 月に、はじめて宮城県を訪ねた。松島連泊の家族旅行だったが、その途次で私にとって第一の奇跡の邂逅というべき『南郷町史』との出会いがあった。

 比企郡は結果として分村はなかったが、竹沢村(現小川町)には埼玉県経済更生委員会から1941 年5 月に分村の指示が来ている。その2 年前に入所式を行った秩父郡中川村分村の補充入植が予定されていた。その後数回の督促はあったが、最終的に立ち消えになった。中川村分村は村で一つの開拓団を形成する長野県大日向村と同類型で、いわゆる大日向型に分類される。しかし、埼玉県として奨励していたのは、開拓団を構成する10 前後の部落の一つとして入植する宮城県南郷村の南郷型だった。

 そうした予備知識があったので、松島からそれほど遠くないらしい南郷に行ってみる気になったのだが、公民館の狭い図書室で手にした『南郷町史』は、それまで読んでいたどの満洲移民研究書よりもわかりやすく、腑に落ちた。ぜひとも、満洲移民の項の執筆者から直接ご教授いただきたい。

そして、安孫子麟(あびこ・りん)氏との邂逅

 その切実な願いを、執筆者の安孫子麟氏はいとも簡単にかなえてくれた。『南郷町史』との邂逅からちょうど1 年後、第二の邂逅である。両の手に大きな紙袋をさげて現れた安孫子氏の差し出した名刺に肩書きはなく、南郷町史の編さん委員長

であることも、東北大学や宮城教育大学の教授であったことも、その時にはまったくわからなかった。

 どこまでも謙虚で物静かな先生ではあったが、満洲移民の本質を説き、南郷分村の実態を語る口調は熱く、尽きることがなかった。私は私で満蒙開拓青少年義勇軍についてあれこれ質問したり、いかにも表層的な話題を得々と披瀝した。今思えば赤面の到りだが、安孫子先生は決して遮ることも呆れたそぶりを見せることもなく、静かに聞き役にも回ってくださった。ただ、満洲移民の中心は義勇軍でなく開拓団ですよ、とここだけはおさえておかないと、といった口調で締めくくった。

 その先生が、2003 年に完成、贈呈した『小川町の歴史通史編』を読み、義勇軍も重要と思いました、と書状に認めてくださったことに感激した。

 『玉川村教育誌』も『都幾川村史』もすでに刊行し、小川町史は普及版も製作したが、翌2004 年で自治体史編纂事業への関わりはすべて終了した。

 その後、小川町史の近現代部会でお世話になった明治大学の渡辺隆喜(たかき)教授に、「資料をたくさん集めたのだから論文博士に挑戦したらどうか」と声をかけていただき、鉄面皮にも渡辺先生に主査をお願いして取り組むことにした。そのことを安孫子先生に伝えたところ、先生にしては珍しくやや戸惑われたようだった。まともに考えれば確かに分不相応、でも、この先、教員稼業だけではある意味物足りないし、とほとんど気にとめなかった。

 先生ご逝去を追悼する右の『河北新報』を読めば、2004 年の旧満洲における「開拓団」跡地訪問は、その後の先生の畏敬すべき新たな活動の第一歩であった。この訪問の前後、先生はこまめに葉書や書状を送ってくださっている。SARS で予定が変わったことや、おかげで現地の大学に招かれるきっかけになったことなど、もしかしたらこのあたりの状況は私が一番多く伝えられているのかもしれない、と思うようになってきた。

 当時は、先生を慕う多くの研究仲間にも伝えていると思い込んでいた。もちろん、その可能性はある。ただ、晩年のいつだったか、宮城県で満洲開拓研究の後継者はどなた?と尋ねたことがある。この時の、誰もいないんですよ、と寂しそうに応えた表情は今も記憶に残っている。

 思い上がりかもしれないし、思い込みかもしれないが、論文博士に挑戦します、などとノー天気に宣言しなければ、満洲開拓研究に本気で取り組んでみたらどうか、と勧めてくださったのかもしれない。

 大崎市松山桃源院の拓魂碑との邂逅

 東日本大震災2 年半後の2013 年10 月に津波被災地を中心とした東北修学旅行(宮城、岩手、青森)を立案・引率した縁で、退職後は宮城県を往来する機会が多くなった。その一環で、大崎市松山の桃源院(とうげんいん)に満洲移民の拓魂碑があることをインターネットで知り、2017 年8 月に訪ねた。

 拓魂碑は境内の目立つ一角に建立されていた。傍らに別に石碑が置かれ、松山地域から渡満して犠牲となった開拓民、義勇隊員すべてを慰霊すると刻まれている(右碑文参照)。宮城県の義勇軍情報にこだわっていたこともあり、当初この拓魂碑の持つ重みは理解できなかった。前もってアポを取っていたので前住職の奥野泰彦(おくのたいげん)師が応対してくださり、拓魂碑建立の発起人3 人の連絡先を教えていただいた。

 いずれも当人は物故し、子の代に替わっていた。「角田一夫」と「尾形道」は、ともに宮城県外の

出身隊員で構成する義勇隊中隊の幹部だった。子の角田專氏は父の遺した写真などを保管し、尾形京子さんは父の手記を製本するなど、親の満洲遺品を大切にしていたが、満洲時代についてはほとんど知らなかった。

 発起人2 人が宮城県義勇軍とつながりがないと知り、とりあえずややガッカリしたことは確かである。とはいえ、開拓団、義勇隊員ともに合祀しながら、犠牲者を「拓友」とまとめたあたりに、義勇隊関係者による慰霊碑であることがうかがわれた。

 

 井上隆悦氏との邂逅

 発起人3 人目の「井上隆」は待望の義勇隊員だった。しかも、大量の手記や当時の資料を遺していた。戦後の収容所生活の時代に書き記した「飼料支出調書」は詳細な会計簿で、緻密で計画的な統率のもとでの集団生活であったことが想像できた。案に違わず、厳しい冬にもほとんど死者を出さず、1946 年7 月に舞鶴港に上陸、帰国した。

 ただ、義勇隊ではあるが「饒河少年隊」だった、という子息井上隆悦氏の説明はわかりにくかった。父は短文ながら「隆の人生」という自伝を書き、手記「饒河少年隊」で満洲移民の歴史と義勇軍創設の経

緯を概説している。隆悦氏は父の遺品を大切に保管するだけでなく、満洲体験の理解にも努めていた。

 後日、「井上隆」は『満洲開拓史』復刊版の饒河(じょうが・ぎょうが)少年隊に関する助言協力者の一人であることを知った。それほどの人物であるから、饒河少年隊同期以外の義勇軍との交流も盛んで、井上家には幾冊かの訓練所史や中隊史が送られていた。2017 年12 月、初対面の隆悦氏から半ば強引に幾冊かを借りた(その一書が右の『嫰江訓練所史』)。帰宅後すぐにコピーし、早々に返却した。

 群馬満蒙開拓歴史研究会との邂逅

 「饒河少年隊」は初対面ではなかった。はじめて安孫子先生にお会いした日、先生は大きな紙袋で10 点前後の本や資料を持参した。それらすべてをお借りして埼玉まで持ち帰ったのだが、その中に、石森克己の『饒河少年隊』(1982)があった。福田清人の小説『日輪兵舎』(1939)は、饒河少年隊に入った南郷出身の小林青年が主人公だった。後知恵ではあるが、それらの主役はいずれも第一次の饒河少年隊員である。一方、井上隆は第三次隊員、したがって第二次の影はきわめて薄かった。そこを補ったのが、饒河少年隊を創設した東宮鐵男(とうみやかねお)関連の資料だった。

 2020 年12 月、東宮鐵男を大叔父に持つ東宮春生(はるお)氏が主宰する群馬満蒙開拓歴史研究会で、小林英夫氏の公開講座があると知り参加を申し込んだ(小林氏は、満洲移民研究の金字塔とされる『日本帝国主義下の満州移民』(龍渓書舎1976)を編纂した満州移民史研究会の一人)。この時の縁で、その後何度か研究会の学習会講師に招かれることになった。

 今後連載する「『満蒙開拓青少年義勇軍』小史」は、基本的にはこの時の資料に基づいて展開することになる。

 

 松島瑞巌寺(ずいがんじ)の拓魂碑との邂逅 

 東北を代表する景勝地松島の瑞巌寺宝物館の手前に5基の拓魂碑があることを知ったのもインターネットによる。知っていれば20 余年前の家族旅行の途次でも、10 余年前の東北修学旅行の下見の時にでも、出向く機会はいくらでもあった。桃源院に比べて目立たない場所に佇んでいる。訪ねたのは桃源院よりひと月早い2017 年7 月だった。

 5 基のうち4 基が義勇軍関係だった。第四次の秋田県との混成中隊を除けば、第五次から第七次までの宮城県単独の郷土中隊が建立している(1 基は開拓団が建立した碑)。各基から読み取れる歴史的な意味は重く、それらは今後本論でじっくり述べていく。

 ところで、宮城県送出の郷土中隊は4 隊ある。ということは拓魂碑を建立していない中隊が1 個隊あることになる。それが敗戦の年に渡満した第八次沢井中隊だった。瑞巌寺の拓魂碑との邂逅は、私にとって義勇軍研究

の大きな契機のひとつとなったが、拓魂碑を建立し得なか

ったという事実もまた邂逅といえば邂逅かも知れない。

 

 『嫰江訓練所史』、そして末広一郎氏との邂逅

 宮城県郷土中隊の第七次岩槻中隊と第八次沢井中隊は、渡満すると最北の嫰江(のんこう・どんこう)訓練所に入所した。井上隆悦氏から強引にお借りした書籍の一冊が、『満州開拓青年義勇隊嫰江訓練所史』である。訓練生の体験記、ホンネの手記が多数収録されていて、資料的にも大いに参考になる。

 多数の隊員が寄稿している中隊の一つが沢井中隊であることに注目せざるを得なかった。嫰江訓練所史をまとめた一人が末広一郎氏であったことを知ったのはごく最近である。末広氏自身は第三次の嫰江訓練所生だった。けれど、第一次の訓練所建設要員とされた伊拉哈(いらは)少年隊の惨状も、第八次沢井中隊の苦悩も、完全にご自身の体験と化していた。

 昨年春の邂逅以来、幾冊かの大部の資料をいただいた。突然のお別れで無限の宿題が与えられたような気がする。

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