VOL.1 <「義勇軍」探究への道>
NO.4 少年農兵隊と義勇軍
※煩雑を避けるため、”満洲”を””抜きで満洲と表記します
「少年農兵隊」との出会い
比企郡4 町村の自治体史編纂事業で、私は郡内外各地を思う存分聞取り調査に走りまわった。取材の対象者とは、本来のテーマにとどまらず戦時期全般に話題が広がることも多く、思いもよらない未知の事柄やワードが飛び出すことも珍しくなかった。その一つが「少年農兵隊」である。
はじめて聞くワード、今となってはどなたのどのような話の過程で出てきたものか失念したが、「内原訓練所」、「ヤマトバタラキ」といった満蒙開拓青少年義勇軍特有と思っていたワードとともに語られ、義勇軍との関連が想像された。
とりあえず近隣の市町村史をあたってみると、『吉見町史下巻』(1979)に「農兵隊」の小見出しでそれらしき記述があった。
「・・内原訓練所の出身だった小川町八和田の畑某と吉見町流川の小池某等十余名が幹部となって、久保田新田の宮下家の蚕室を借り受けて、約百名の高等小学校卒業生の隊員の合宿による農兵隊と称するものが生まれた。精神教育とともに荒蕪地の開墾による食糧増産を目的とした・・」。
その後、「畑某」にも「小池某」にも「宮下家」当事者にも取材し、記述の誤謬がいくつも明らかになるが、『吉見町史』が調査の弾みになったことは確かである。
少年農兵隊の正式名称は「甲種食糧増産隊」である。食糧増産をキーワードにして取材を重ねた時期に、「農業増産報国推進隊」なる新たなワードも登場して戸惑ったが、以下のように3 段階に整理できる。
農業増産報国推進隊から少年農兵隊まで
その1.農業増産報国推進隊(1940~1944)
1940(昭和15)年から1944 年までの5 年間、農林省は全国7500 の農村それぞれから「農業報国ニ燃」える農民を2 名ずつ選抜させ、およそ15000 人に及ぶ農業増産報国推進隊を結成し、農閑期の冬季に内原訓練所で約一ヶ月中央訓練を行った(第5 回は本土空襲が始まり、会場を岩手、千葉等5 個所に分散した)。
右の内閣情報部『週報』は第1 回の訓練について伝えている。自治的訓練のもと、時局に対する理解と食糧増産に関する知識の習得をめざすという。近衛首相や石黒農相、陸海軍軍務局長、企画院総裁等々、錚々たる為政者による直々の講話は隊員らのプライドをくすぐり、国家に従順な農村の中堅人物を養成する目的は達成できたと思われる。
もっとも訓練後半には「所外訓練の名目で各地に出役し、各種の奉仕作業を行」(『満州開拓と青少年義勇軍創設と訓練』1998)っていて、体(テイ)のいい労働力にされた、と述懐した元隊員もいる。第1 回の場合は千葉県東葛飾郡の利根川河川敷における開墾と麦播作業が専らで、ここは前年に建設された千葉県の報国農場だった。小塩海平氏によれば、青少年義勇軍の訓練生300 人がこの時の開墾作業にあたっている(『農学と戦争』2019)。
農業増産報国推進隊を立案、推進したのは第二次近衛内閣の農林大臣石黒忠篤である。就任前年の1939年、朝鮮半島や西日本は大干魃に見舞われ、それまで朝鮮や台湾など植民地からの移入農産物も合算すれば、国内における食糧不足の懸念は無用とタカをくくっていた農政担当者を慌てさせた(右海野洋論考参照)。
1940 年も不作が見込まれる中で農相に就いた石黒は、直ちに農業報国連盟(右※参照)と共同して、「自ら農民に接して戦時下の食糧確保のために農民に一肌脱いでもらう」(小平権一『石黒忠篤』1962) ことを目的に農業増産報国推進隊をつくり、内原訓練所における中央訓練を強行した。
その2.食糧増産隊(1943)
1941 年12 月にアジア太平洋戦争が始まると、軍事、生産動員は激しさを増し、農村から青壮年男性が流出していった。相俟って農業生産力も落ちていく。
1943 年6 月4 日、東條内閣は「食糧増産応急対策要綱」を閣議決定して食糧増産体制の強化を図る。そのための農村労力の補給として、付近都市部の青少年、一般市民の援農活動や学徒動員を定めるとともに、農村青少年による食糧増産隊の結成を決定、早くも8 月4 日から29 日まで内原訓練所で中央訓練を行った。
ただし、この時の食糧増産隊は4300 人余り、満17~25 歳が対象で、中央訓練を終えたのち帰郷して増産活動に従事するものの、この年1 回限りで終わる。
その3.少年農兵隊
( 1944.4~1947.3)
「食糧増産応急対策要綱」で食糧増産隊の編成を予告するや直ちに実施に踏み切った政府は、その予告の末尾で、「尚(なお)」として、「農村国民学校児童ノ就労ニ付更ニ適切ナル措置ヲ講ズルコト」を命じている。
その結果が同年12月28 日の閣議決定「食糧自給態勢強化対策要綱」である。「道府県及中央ニ於テ食糧増産隊ノ編成ヲ拡充シ農村ノ要請ニ応ジ随時随所ニ出動セシムル」と定めた新たな食糧増産隊の対象は、農村国民学校児童にほかならなかった。
甲種と乙種に分け、1943 年版食糧増産隊の直系というべき甲種は、「食糧増産隊要綱」で対象が14 歳から19 歳までの男子とされているが、県から地方事務所経由で各町村に通達された募集要綱には「満14 才以下の男子にして農家の後継者」と記されている。
「皇国農村の剛健なる後継者の養成」を目的に掲げ、増産活動だけでなく、「皇国農民精神の鍛錬陶冶を主眼とし修身、公民、普通学、農学及実習、教練等を相当時間数課す」ると書かれた要綱に惹かれて応募した少年も少なくない。けれど、比企地域で取材した範囲では、昼間の作業で疲労困憊のうえ、教える側にそんな知識や技術はなく、学習機会の保障は絵に描いた餅だったと嘆く声が多かった。
一ヶ月の訓練終了後、合宿生活に入り、おもに県内各地の要請に応じて援農や土地改良工事などに出動した。すべてが軍隊式で50 人一小隊の誰かが後れを取れば50 人全員の連帯責任、びんたが吹き荒れた。移動は行軍形式、夜は立哨当番で宿舎の門前に立った。少年農兵隊と通称される所以である。
甲種食糧増産隊一年目の活動が始まった1944年4月ころ、石黒忠篤は農商省(1943 年11 月1 日、農林省と商工省の一部が統合)大臣ではないが、依然農政に隠然たる力を有していた。『村と農政』に寄せた「農民の軍隊的編成と少年農兵隊」(右参照)を読めば、確かに少年農兵隊が軍隊組織になぞらえた編成であることが理解されるが、その先駆的成功例として満蒙開拓青少年義勇軍をあげていて示唆に富む。
戦後も続いた少年農兵隊
乙種食糧増産隊の対象は「農業ニ留ムベキ国民学校修了ノ男子及女子」で、国民学校初等科修了の12
歳から14 歳までの子ども達を市町村単位で編成し、1 年間の任期中3 ヶ月程度食糧増産活動に動員させろという。
農村の子ども達すべてを村にとどめておくような施策に先例はなく、村で指導しろと言われてもどうしていいかわからない。甲種の記録さえほとんど遺されていないのだから、乙種にいたっては活動実績の有無さえ把握できないが、乙種の指導者候補とされた村幹部は訓練に集められ、石黒らから檄を飛ばされている。
甲種の方は家を継ぎ、将来の村の中堅役をも期待されたはずだが、前頁、大山昭司氏の証言にある通り、2 年目には満洲行きを勧められた子どももいた。埼玉県の場合、郡単位に中隊を編成しているが、比企郡所属の隊ではけっきょく一人だけが応じた。大里郡所属の隊では11 人が渡満し、戦後帰国を果たしたのは4 人に過ぎない。比企の一人は帰ってこなかった。農兵隊体験者の間では義勇軍の補充にされたと噂したが、実際には満洲建設勤労奉仕隊に加えられたようだ。奉仕隊なら何事もなければ数ヶ月で帰ってこれるはずだった。
1939 年に県内に報国農場を造った千葉県は、1943 年、興安東省に在満報国農場を設立した。1945 年4 月、少年農兵隊の64 名が勤労奉仕隊員として送り込まれ、7 月に帰国不能の通知があり現地で敗戦を迎えた。犠牲者は14 名という(樋渡修編『少年農兵隊とは何か-証言と資料-』2015 。『農学と戦争』では渡満した少年農兵隊員は61 名)。
甲種の任期も1 年間だが、割当てを埋められず、次年度もやらないかと声をかけられた隊員は多い。2 年目は1945 年4 月に始まり、途中に敗戦をはさみながら何事もなかったかのように任期満了の1946 年3 月まで続けられた。戦後の活動の方が厳しかったという証言もある。名称は戦後早々に改められた。埼玉県の場合は農事講習所だが、都道府県単位の構成で中央組織を持たないため、他県については不明である。
驚くべきことに戦後2 年目も活動は続けられた。全期間を通して中隊幹部として比企中隊を率いた畑忠治氏の任期満了は1947 年3 月8 日だった。戦後こそ国民の飢餓が本格的になると言われた時期に、農政当局としては思うがままに使役できる少年農兵隊を解散させることを惜しんだと推測する。
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