VOL.1 <「義勇軍」探究への道>
NO.3 さまざまな動機
※煩雑を避けるため、”満洲”を””抜きで満洲と表記します
海外雄飛
1994 年からのおよそ10 年間、私は高校教員の傍ら比企郡4 町村の自治体史編纂事業に関わり、いずれも戦時期を担当した。具体的には小川町、都幾川村、玉川村(両村は2006 年に合併し現ときがわ町)、嵐山町(途中事業から離脱)で、比企郡西部域をほぼ網羅し、おかげで町村単位に分断されがちな情報も相互に補完できた。
比企郡は全体として満洲分村をまったく出していない。それだけに義勇軍の存在が突出している。4 町村とも、取材に応じていただいた元義勇軍本人、その家族・遺族、元担任教師等は、それぞれ十数人もしくは数十人に及ぶ。
当時は戦後半世紀余りの時期で、義勇軍当事者は最年長で(第一次1938 年入隊時20 歳として)80 代前半、もっとも若い隊員は1945 年の第八次年隊14 歳で60 代半ば、まだまだ記憶も鮮明だった。
玉川村の編纂は『教育誌』のため教育関係に特化し、「聞き書き」に割くスペースは大きい。
右の八木原和一さんは1941 年第四次の郷土中隊員、比企郡だから久保中隊である。大農になりたくて、はじめはブラジルを考えたが満洲の方が近いので義勇軍に応募したと話す口ぶりからは、この年の暮れにはアジア太平洋戦争に突入するといった時代の緊迫感や国のためというような気負いは感じ取れなかった。
「土地をもらえるから義勇軍になった」のは八木原さんに限ったことではない。同じく第四次年で加藤中隊の一員になった行田市の戸ヶ崎恭治さんも「一人当り10 町歩の土地が与えられ、悠々たる農業経営が約束され」て、応募した。戸ヶ崎さんの父親は若い頃ブラジル移民を夢見たが果たせなかった。息子の義勇軍志願に賛成し、「俺もあとから満洲に行く」と話している(『曠野の夕陽』)。
海無し県埼玉は元来海外移民のきわめて少ない県だが、皆無ではない。右は平村(現ときがわ町)役場に遺る公文書から作成した1931 年から1934 年まで4 年間の埼玉県全体の海外移住者数とその移住先の内訳である。
一目瞭然、ブラジルが圧倒的多数を占める。県拓殖協会によれば、4 年間の海外移住総数は696 名、うち555 名、8 割がブラジル移民である。下のグラフは1899 年から1941 年までの各年の全国の海外移住数である。満洲に第一次試験移民500 名が武装して送り出されたのが1932 年、第一次の義勇軍送出は1938 年、それまでも、その後も、多くの日本人が海を渡っていた。
学習願望
もう一人、玉川村から応募した小峰弘さんを紹介する。
小峰さんは八木原さんの1 期前の第三次年隊員で、三重県との混成中隊だった。義勇軍に応募したのは家ではできなかった勉強を思う存分したかったから、という。
向学心を満たしてくれた訓練生活だったが、その一方で、初期の武装移民に、現地中国人からの土地取り上げの実態を見て取り、小峰さん自身は農業でなく鍼灸師として生きていくことを決意している。
募集する側の意図するところは今後明らかにしていくとして、義勇軍訓練所には農業だけでなくさまざまな技能を学ぶ機会もあったのである。
国策に呼応して
『満洲開拓史』は、「いかに当時の青少年たちが、口には出さず、理屈も言わなかったが、潜在的に国家の危急を意識し、身を挺して海外におもむくことを躊躇しなかったかを物語る」と、義勇軍に応じた少年達を讃える。この文は第一次年隊の応募者が予想を大きく上まわったことに対して述べたものだが、実態はどうだったのか。
埼玉県が県の事業として編纂した『曠野の夕陽埼玉県満蒙開拓青少年義勇軍の悲劇』(下参照)は、第一次から第七次までの元義勇隊員24 人の証言を収録している。そのうち10 人が第一次年隊員である。
10 人の応募理由を表にまとめてみたが、「国家の危急を意識し」たと読み取れる証言はなかった。応募理由が空欄の3 人は、証言が渡満3 年後の開
拓団に移行した時点から始まるからである。
そのひとり原口竹三さんは小川町出身のため直接取材している。
募集時にはすでに18歳になっていたので、勧めたのは青年学校の教師だった。土地を継げない二男の立場、満洲に行けば10 町歩の土地が貰えるというのでその気になった。母親は反対したが、かつてブラジル移民を夢見ていた兄の理解で応募したという。
右のグラフは拓務省拓務課の調査による「義勇応募の動機」である。1941 年以降「教師の勧め」が激増するが、国策を強調した勧誘であったのか、個人的な夢を与える進路指導であったのかまでうかがい知ることはできない。
義勇軍が国策として強硬に押し進められた1938 年から1945 年までの8 年間は、国内外ともに激動の時代だった。後半の4 年間はアジア太平洋戦争期に重なる。義勇軍制度も戦争の激化とともに大きく揺らぎ、変容する。ひとくちに「国策」といっても、意味するところも大いに異なっていく。
1944 年に応募した第七次年隊の小川町、都幾川村出身など4 人を取材している。
「予科練に入ってお国のために尽くしたかった」、「早く兵隊になりたくて海軍に志願した」が落ちたので義勇軍にしたなど、兵隊になる代わりと考えて応募した元隊員が多かった。「兵隊になって戦争に行き、祖国のために死ぬことが名誉」と教育されていたから、とも話してくれた。
文字通り、国策に応じたわけだが、教師の勧誘も激しさを増していた。帰れたからいいが、当時は騙されたと思った」という証言も聞いた。
埼玉県史編さん室『曠野の夕陽』第一次応募者手記を整理
『ヒロシマ通信』用に、「応募理由」を書いている7 名に関し、他の項目も含めた記載内容の一覧を加えます。
▼PDF版は以下からダウンロードできます



