資料で読み解く「満蒙開拓青少年義勇軍」小史 第19号 (一條三子)

VOL.4 <「満蒙開拓青少年義勇軍編成ニ関スル建白書」の提出 >

NO.2 「満蒙開拓青少年義勇軍編成ニ関スル建白書」解題

※煩雑を避けるため、”満洲”を””抜きで満洲と表記します

 「創設要綱」(1937.7.15)と建白書(1937.11.3)の間

 

  伊拉哈少年隊の派遣を決めた「青年農民訓練所(仮称)創設要綱」(「創設要綱」)から、満蒙開拓青少年義勇軍の呼称をはじめて用いて国策化を直接促したとされる「満蒙開拓青少年義勇軍編成ニ関スル建白書」(「建白書」)の提出まで、4ヶ月近くの空白期間があります。

  「創設要綱」を決定した「新京会議」の前々日に始まった日中戦争は拡大の一途をたどり、ともなって満洲内の「匪賊」の動きも、ソ連との国境紛争も、激しさを増していました。この4ヶ月の間に満洲や日本内外を取り巻く状況は大きな変化があったはずですが、のちの記録には、「建白書」が単に「創設要綱」に追随しているかのような解説が散見されます。

 たとえば 『満洲開拓史』 は、

 「(創設)要綱はきわめて簡潔、方針と要領それに備考しか述べていないが、ここには義勇軍制度の根本義が明瞭に打ち出されている」として、「創設要綱」がすでに義勇軍制度の根幹を規定したかのように紹介しています。そして、備考に基づいて伊拉哈少年隊が短期間で送出されたことに触れ、「当時関東軍がいかに義勇軍制度を重視したかを示すもの」と結んでいます(『満洲開拓史』243頁)。

 

   一方、「建白書」については、

  「青少年の移民は、日本側も拓務省当局はただちに承認、あとは時の政府の閣議決定を待つばかり」で、「加藤完治はもとより」「香坂昌康」「石黒忠篤と他に大倉公望、那須、橋本の諸氏が相集まり、相はかって、義勇軍制度創設の気運をもりあげるため」につくった、というのです。「当時の社会情勢をよく把握したものとして記録にとどめるべき」と若干の意義づけはしているものの、総じて「建白書」に対する評価は低いといえるでしょう(『満洲開拓史』244頁)。

 

  けれど、本当にそうでしょうか。そうだとすれば、義勇軍制度は創めから最後まで関東軍のペースが貫かれていることになります。訓練所制度のあり方に多少加藤の腹案が採用されていたとしても、「建白書」に署名した他の5人は単なる飾り物ということになってしまいそうです。

 実際は、「建白書」には国内の懸案事項がいくつもあげられていて、関東軍とはまた別の義勇軍にかける期待もこめられていました。

   「建白書」 はかなりの長文です。大きく4つの文脈に分けることができると思います。そこで、4つそれぞれの文脈の概要を確認しましょう。

文脈1 戦争拡大による大量移民計画後退への危機感

 満洲事変の発端となった柳条湖事件は満洲域内でしたが、盧溝橋は北平(北京)郊外ですから、盧溝橋事件が日中戦争の始まり、ととらえられがちです。でも、数日後には現地軍同士で停戦協定を結んでいますから、「新京会議」の決定にほとんど影響はありませんでした。最初の文脈はその後の情勢の変化に対する危機感の表明です。

 会議で決まった伊拉哈少年隊の募集、訓練、渡満は順調でした。ところが、盧溝橋以外でも中国北部で散発的な武力衝突が繰り返されたのち、8月13日に上海に戦火が拡大すると、15日に近衛内閣は蒋介石政府を「断固膺懲する」と声明、実質的な日中戦争の始まりです(小林英夫『満洲国を産んだ蛇』188頁)。

 戦争の始まりは、前年に決めた20年間で百万戸の満洲移民を送出するという壮大な計画に重大な影響を及ぼしかねません。百万戸送出計画の第一年は武装して送り出した第一次試験移民から数えて6年目、その第六次集団移民の募集要綱に、応募資格の第一として、年齢が「徴兵検査終了後より満40歳まで」と書かれています。この年齢層は戦時に徴集、召集される青壮年層に重なります。満洲移民どころではない、という声が上がってもおかしくありません。  

 

  そこで、「建白書」は危機感を持って訴えます。「支那戦局」(9.2閣議決定で「北支事変」から「支那事変」に改称) の拡大は「未曾有ノ国難」であり、全国民が上下一致して達成すべきもっとも緊急事は、満洲国を真の盟邦とし「日満一体ノ実ヲ挙ゲ」ることにある。

 「国策トシテ満洲大量移民」を決めたのはその日満一体の根底を築くためであり、それには農業移民が最適である。これを、たまたま起こった戦争で頓挫させてはならない。満洲国を「日本民族ヲ指導者トスル五族協和ノ王道国家」にしなければ、中国との戦争に勝っても東洋永遠の平和は得られない、と大量移民計画の意義を力説します。

 そして、満洲「現地ノ緊迫セル情勢ト切実ナル要望ヲ熟知」する者として、「満洲移民国策拡充即行ノ急務」を痛感し、その「最モ適切有効ナ実行方法」として、「満蒙開拓青少年義勇軍ノ編成ヲ提案」し「即時断行ヲ要請」する、と強硬に主張します。

 戦時で青壮年の大量移民が難しくなったから未成年移民(青少年移民)で補完しよう、未成年移民は、「満蒙開拓青少年義勇軍」と呼ぼう、というわけです。

 

 なお、「現地の緊迫した情勢」の一つが、ソ満国境におけるソ連兵との武力衝突です。饒河少年隊北進寮近くを流れるウスリー江も国境線、37年6月頃からソ連兵が中洲の警護を強化し、饒河の住民を不安に陥れました(第17号資料7)。

 ソ連は1925年に日ソ基本条約を結んで国交を回復してまもなくの26年から、たびたび日本に不可侵条約の締結を打診しています。28年から「第一次5ヶ年計画」を開始するものの、まだ国力は低く、再びの干渉戦争(シベリア出兵)を恐れ、体制の違いを超えて各国と協調路線をとろうとしていたのです。

 それは満洲事変開始後も変わらず、31年のうちに改めて不可侵条約の締結を求めてきました。けれど、日本政府は1年後に申し出を断りました。

 日中戦争が全面化してまもなくの8月29日、中ソ不可侵条約が結ばれ、ソ連は中国の支援を宣言します。ソ連の5ヶ年計画の成果に、関東軍作戦課長に就いた石原完爾が驚愕したのは開戦前の35年のことでした。満洲国も37年から「満洲産業開発5ヶ年計画」が始まりますが、石原の指示と言われています。

 文脈2  「創設要綱」 の広報

 

  文脈2は「創設要綱」の紹介です。ただし、「日本内地農村青少年」の呼称は「満蒙開拓青少年義勇軍」というインパクトの強い表現に変わりました。

 「全満数カ所ノ重要地点」に設けた大訓練所で開拓訓練・軍事教練を積み、皇国精神を錬磨し、あわせて満洲農業に必要な知識技能を修練。その後、中小訓練所に移り修練を続け、国策移民の完成を助け、将来の移民地を管理することになります。

 ここまでは「創設要綱」に沿った内容です。その先に、「創設要綱」にはない新たな役割が加えられています。まず、「一朝有事ノ際」は「現地後方兵站ノ万全ニ資スル」としています。そして、満17歳以上は志願の資格があるのだから、大訓練所と連携して志願兵部隊を特設するのも「時局ニ適応セル一策」と提案しています。

 この4ヶ月の時局の変転が反映されていますが、いずれも関東軍の歓迎する内容ばかりです。

 文脈3 青少年移民の先行事例に対する賛辞

 

 青少年義勇軍のような「企画」はすでに前例があり、それらはみな大成功しているとして、その二つの前例を紹介する文脈です。饒河少年隊については本紙13~17号、伊拉哈少年隊については12号を参照してください。

 興味深いことがいくつかあります。第一に、饒河少年隊の最初を「昭和十年」としていることです。東宮鐵男色の強い昭和9年の第一次寮生は対象外、ということなのでしょう。

 第二に、「創設要綱」では3年間に3個所の訓練所を建設し3万人を収容する計画ですが、「建白書」は1年の間に5個所5万人と大きく飛躍していることです。現実離れした数字で、つい加藤の発想と思いがちですが、「建白書」を起草したのは加藤ではありません。

 「建白書」を提出するわずか半月余り前、加藤は饒河と伊拉哈に何度目かの訪問をしています(『弥栄』179号)。この時同行したひとり、「更生協会の杉野」こと杉野忠夫が書いたのです。10月15日に帰国してから、実際に見てきたことをふまえ、きわめて短期間のうちに「建白書」を書きあげたということでしょうか。

 杉野の手による「建白書」も、加藤の書いた『弥栄』179号の記事も、当然ながら少年移民に最大限の賛辞を与えています。

 饒河少年隊第一次寮生のひとり石森克己は 「建白書」のその個所を引用し、「われわれ当事者の側から見ると、この美辞麗句の文章には 『なんとも過分のおほめに預かりまして』 と唯々恥じ入るより外にない」(『饒河少年隊』118~119頁)と、皮肉まじりです。

 さらに、「建白書のすべてが事実に反する」とは言わないが、いくつかあったであろう問題点を無視して事を進めた人々の、その神経の太さ、杜撰さに驚くほかない」 とまで言い切っているのです。

  なお、経費がひとりあたり250円で節約できると喜ぶのは、前年拓務省が作成した「北満における農業移民経営標準案」の中で、移民一戸あたりの補助金を890円と予想したこととの比較と思われます。


 文脈4 国内独自の意義づけ 

         

① 署名者の肩書き

 

  本号に引用している「建白書」は、『満蒙開拓青少年義勇軍関係資料 第1巻』(不二出版、1993) 所収の写しです。「建白書」の原本は未発見で、この資料集に収録されているのは署名者のひとり那須皓の旧蔵文書の一つです。

 白取道博氏の解題によれば、政府要人に提出する際に印刷した残部の可能性があるそうです。白取氏の知る限り、「収録したものと同様の体裁を伝えるものは見当たらない」とのこと、よく見る一般的な「建白書」の体裁とどこが違うのか、気がつきましたか。

 署名者に注目してください。そうです、肩書きが書いてありません。この「建白書」は時の近衛内閣の閣僚13人全員のほか、半月前の10月15日に発令されたばかりの10人の内閣参議にも提出しました。内閣参議は「支那事変二関スル重要国務ニ付内閣ノ籌画(ちゅうかく)」に加え、「国務大臣ノ礼遇ヲ受」ける行政官です。

 国家最高の政治権力者ひとりひとりに「建白書」を提出して義勇軍の編成を訴えるには、自らの肩書きを記すことは不要、あるいは非礼、ということなのでしょうか。書かれていないところから何かを読み取るのはとても難しいことです。

  ところで、署名に関連してもうひとつ、一般的な掲載と異なる点があります。順番が違うのです。筆頭の石黒忠篤以外はみな順番が違っていて不思議です。『満洲開拓史』 など大方(おおかた)の資料書の一般的な順番と、各署名者のおもな肩書きを資料1に整理しました。

 署名には、最初にあげた肩書きだけが冠されています。香坂昌康以外の5人は満洲移住協会の役員です。石黒を除く4人の肩書きに用いられています。「創設要綱」には、「日本内地における募集及び訓練は満洲移住協会これに任ず」(12号PDF原稿1頁に「創設要綱」全文掲載)とあるので、青少年義勇軍の創設を提言するにもっともふさわしい肩書き、と冠した方々は判断したものと思われます。

 石黒忠篤も満洲移住協会の理事ですが、農村更生協会理事長として紹介されています。大倉公望以外の5人がそろって農村更生協会に属しています。農村更生協会は1934年12月に設立された農林省の外郭団体、同年7月に農林次官を退官して野に下った「石黒さんのために作った」(竹山祐太郎 「農山漁村経済更生運動の経過」(『農山漁村経済更生運動正史 資料集第1号』1976.4))ようなものだそうです。

 石黒は「更生運動の生みの親であるから、今後は民間から応援してもら」(石原治良「農村更生協会とその取組んだ事業」(『農山漁村経済更生運動正史 資料集第12号』1978.12))うことが目的なので、農林省の補助金に頼っていいなりにならないですむように民間から多額の寄附金を集めた、という気の配りようです。  

 香坂昌康ひとり大日本聯合青年団理事長という6人の中では「異色」の存在です。とはいえ香坂と同じく農村更生協会の役員を兼務している者は多く、両団体の関係もまた密接です。


② 国民精神作興の一大国民運動

 

 実質的に全面戦争に突入した8月15日から10日も経たない同月24日に、近衛内閣は「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定し、「時局ニ関スル宣伝方策及国民教化運動方策ノ実施トシテ官民一体トナリテ一大国民運動」を起こすことを宣言しました。

 10月12日、その国民運動の中核となる国民精神総動員中央連盟が結成され、発起人のひとりでもあった香坂昌康は理事の役職に就きました。

 「建白書」文脈4の冒頭はこれまでとだいぶ趣が違います。「真の国難は外敵にあらず」、国民思想が健全か否かにあると、まるでけんか腰です。そして、だから政府は「国民精神総動員ヲ提唱スル」のだろう、とこれも強い口調です。

 それにしてもいまの国内は「青少年ノ精神ヲ鍛錬陶冶」して士気を高める環境に乏しい、「銃後ニ於テ動モスレバ第二義的活動ニ心身ヲ消耗」するのが実情だ、青少年義勇軍こそがこうした「危機ヲ転ジテ真ニ国民精神ヲ作興スル一大国民運動」である、と最初の段落を結んでいます。実は、時あたかも国民精神作興週間が近日中に迫っていました。後述します。

  さて、「第二義的活動」が何を示すのか、推測の域を出ませんが、後出の、「過度ナル都市集中」によってもたらされる「各種社会問題、思想問題」に関連した若者の行動もそのひとつであることは間違いないでしょう。

 当時、「向(好)都離村」という言葉がありました。貧しく土地を持てない農家の二、三男坊などが華やかな都会に憧れ、村を離れる、という意味です。都会に出ても結局は職に就けず、体質は低下し、問題を起こしたり社会主義思想に染まるなど、国家民族の将来にどんな弊害をもたらすか、心配でならないというわけです。

 そして最終段、いまや軍需工業が相当に勃興してきたとはいえ、いまも農村には多数の青少年が待機しており、義勇軍の編成を首を長くして待ちわびている、満洲でも万端の用意をして待っている、日満両国のため、東洋永遠平和のためにも、義勇軍国策化の即時断行を!

 

 「建白書」を提出した11月3日は明治天皇の生誕日、戦前の日本社会では特別な祝日でした。2週間前の10月19日に内閣情報部は「明治節奉祝及国民精神作興週間実施方二関スル件」を通牒しています(資料2)。

  14年前の1923年9月1日、関東大震災によって国内は未曾有の混乱に陥りました。2ヶ月後の11月10日に大正天皇は「国民精神作興ニ関スル詔書」を渙発し、震災後の国力の振興は国民の精神に待つものと諭しました。爾来、時の政府は11月10日前後に国民精神の引き締めをはかって精神作興週間を設けてきたようですが、日中戦争勃発の1937年はより強力に展開しています。その中心的役割を果たしたのが国民精神総動員中央連盟です。

  文部省もまさに11月10日発行の『週報』(内閣情報部)で、「時局と国民精神作興」を解説しています(資料3)。ただし、この時点では文部省は義勇軍にまったく言及していません。


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