VOL.4 <「満蒙開拓青少年義勇軍編成ニ関スル建白書」の提出 >
NO.1 「満蒙開拓青少年義勇軍編成ニ関スル建白書」 提出に到るまで
※煩雑を避けるため、”満洲”を””抜きで満洲と表記します
「満蒙開拓青少年義勇軍小史」再開のご挨拶
昨年3月31日の第1号から12月15日の第17号まで、おおよそ月に2回連載してきた「満蒙開拓青少年義勇軍小史」を3カ月ぶりに再開します。
これまで通り、毎月1日と15日に更新する予定です。PDF版のスタイルも17号までと基本的に変わるところはありませんが、表題に「資料で読み解く」の文言を加えました。これまでもできる限り根拠となる資料、参考になる資料等を載せてきましたが、より掲載史資料の精選に努め的確な解説を心がけたいと思います。
今後の連載予定は右の通りです。ただし、厖大な資料、情報の中からお伝えしたいことを選ぶため、連載回数が多少増えるかも知れないことをあらかじめお断りしておきたいと思います。ご感想、ご批判、そして情報のご提供をお待ちしています。
第17号までのおさらい
本号と次号のテーマは「満蒙開拓青少年義勇軍編成ニ関スル建白書」です。未成年の移民に対してはじめて「満蒙開拓青少年義勇軍」の名称を用いたため、この建白書が提出された1937年11月3日を義勇軍制度の出発点とする考え方もあります。
とはいえ、4ヶ月足らず前の7月15日に満洲の首都「新京」で関東軍が決定した「青年農民訓練所(仮称)創設要綱」(以下「創設要綱」)から義勇軍の歴史を語ることが一般的です。建白書は「創設要綱」に呼応して書かれた、と解説する書も多いようです(たとえば長野県歴史教育者協議会編 『満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会』 (大月書店、2000))。
「小史」を始めるにあたって、満蒙開拓青少年義勇軍のルーツはどこまで溯るべきか、という問いを立てました。そして、奉天に日本国民高等学校北大営分校(北大営国民高等学校、奉天日本国民高等学校等とも称される)が開設された1932年6月、つまりおとなの第一次武装移民の送出より4ヶ月も前倒しした時期を仮の答としました(第6号)。
もちろん、おとなの移民より早く義勇軍が送出された事実はありません。しかし、満蒙開拓青少年義勇軍制度の特徴を以下の3点としたことで、そうした捉え方もなり立つものと考えました。
1.未成年(徴兵前の青少年)の移民
2.移民訓練所における長期の訓練
3.武装した移民
北大営分校は文字通り移民の訓練施設として創設されたため、ルーツと考えたのです。
そして、第一次武装移民が思うような成果をあげていないと感じた東宮鐵男が上申書に書いた「純粋の少年は可」は、未成年移民に目を向ける契機になりました。
その後の経緯について、おもに少年移民に関して第17号までに記した関連記事を年表にまとめてみました(資料1)。
謎の 「新京会議」 (7月9~15日)
17号では、7月9日に始まった新京会議に加藤が出席したのか、この会議で決定した「青年農民訓練所(仮称)創設要綱」の素案は加藤の手によるものなのか、確認しきれず推定の文章に終始しました。
ところが、『満洲開拓と青少年義勇軍』(内原訓練所史跡保存会事務局編)に、加藤は会議に招かれたことが明記されていました。同書によれば、「会議については記録がなく、会議内容は「創設要綱」と『弥栄』 に掲載された加藤の文以外詳細は不明」ということです。該当する『弥栄』 第177号の記事について、その前半は第17号に資料8として掲載しましたので、後半を改めて本号の資料3として掲載します。
その前に、加藤が新京会議で「創設要綱」の素案の提案をした明らかな「証拠」を紹介します(第10号でも言及)。
新京会議から2ヶ月後の9月14日から18日まで、5日間の日程で、満洲拓殖委員会主催の第一回移民団長会議が開催されました。
満洲拓殖委員会は9月1日に委員が任命されたばかり、8月3日に株式会社から移行した満洲拓殖公社を監督する権限を持ち、関東軍参謀長が委員長に就く権威ある組織ということになります(この時の委員長は東條英機)。
その委員会が、各集団移民、自由移民の団長を召集し、「関東軍、満洲国、拓務省、大使館、関東局、満洲帝国協和会、満洲拓殖公社、南満洲鉄道株式会社、満洲移住協会、農村更生協会、其他移民関係機関」の参加を求めて、「第一回団長会議」 を催したのです。
会議第一日、16項目にのぼる「指示事項」の説明があり、そのひとつ「少年移民に関する件」では、7月15日の「創設要綱」を改めて翌日付で決定し、担当官が要旨を解説したあとに、少年移民の「提唱者」として紹介されたのが加藤でした。
資料2は加藤の発言の全部です。開拓団の団長が聴き手ですから、訓練を終えれば理想的な移民になる青少年を何人団員として引き受けられるか、計画を立ててほしいと力説しています。
「今度の事変」が起こったことに鑑みて、「特に理想に燃えた青少年を一日も早く送り込むことが、現下の情勢に照らして非常に大事」という発言からは、盧溝橋事件(7月7日)の2日後に開催された新京会議は、その後に拡大する日中戦争の影響下になかったことがわかります。「盧溝橋事件の2日後に開催」等の表現は誤解を招きかねません。
青少年義勇軍の濫觴 (饒河少年隊と伊拉哈少年隊)
第17号資料8と本号の資料3で加藤完治が 『弥栄』177号に書いた記事のすべてになります。新京会議に関するほとんど唯一の資料ということですが、「新京会議」の語も「創設要綱」の語もありません。
でも、前半(17号資料8)で第三次饒河少年隊の渡満・受入れを饒河側が拒んでいる状況が浮かび上がり、後半(資料3)では「創設要綱」によって募集、渡満することになる伊拉哈少年隊及びそれ以降の大量の少年移民に期待する事々が列挙されていることは明らかです。
第三次饒河少年隊と伊拉哈少年隊の類似点については、第17号(PDF版5頁)に整理しました。募集から渡満までの期間がきわめて短い点や、訓練所が抗日武装勢力の多い危険地域に設営されることなどは、「創設要綱」だけを見れば驚きですが、少し前を行く第三次饒河少年隊の場合ときわめて似ていることの方にむしろ驚かされます(資料4の年表参照)。
8月18日に第一次、二次寮生に慕われた法元辰二北進寮寮長が饒河を去り、饒河少年隊産みの親の東宮鐵男が11月14日に戦死したことで、元来の饒河少年隊の特色は、「武装」を残してなくなりました。そして、伊拉哈少年隊ともども、これから制度化される青少年義勇軍の濫觴と位置付けられていくのです。
長野県に届いた第三次饒河少年隊の募集要綱にはなくて、「創設要綱」に加えられた重大任務があります。満鉄沿線の警備です。加藤も『弥栄』177号で強調していますが、新京会議の影響でしょうか。
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