「満蒙開拓青少年義勇軍」小史第16号(一條三子)

VOL.3<第0次年(1937年)の満蒙開拓青少年義勇軍>

NO.6 饒河(ジョウガ)少年隊 その4  第三次寮生 (前編)

※煩雑を避けるため、”満洲”を””抜きで満洲と表記します

1936年の北進寮

 前号では北進寮の実情に迫る貴重な資料として、石森克己の『饒河少年隊』に引用されている「寮日記」をできるだけ多く紹介しました。その最後、1935年11月11日の記事には、東宮が1週間寮に滞在し、寮生達が楽しい時間を過ごした様子が記されています。石森によれば、これが手元に残る寮日記記事の最後です。

  『饒河少年隊』 は昭和9年から12年まで、年ごとで章立てしています。その「第三章 昭和十一年」は、寮生の募集のない1年ですが、のちに「青少年義勇軍の濫觴」と位置付けられる特徴が現れてくる1年でもあります。第三次寮生が入寮するより早くから第三次寮生的な饒河少年隊に変わりつつある状況を、まずは確認しておきたいと思います。

 

不平・不満の醸成

 前年(1935年)の夏に神田公館直属のラジオが設置され、小型発電機で受信していたので、石森等寮生も日本国内のニュースなどを神田顧問や法元先生から伝えられることは多かったようです。二・二六事件では、蹶起部隊に「異様な感動を覚え」、逆に部隊を早々に断罪した神田大尉に違和感を抱くなど、政治や社会の動きに少なからず関心を持っていました(『饒河少年隊』104頁、以下省略)。

 一方、この時期の『饒河少年隊』 には、冬場の作業の中心が薪の運搬だったとか、「満洲国建国祭」に参加したことなど、日常生活が記され、同時に「金のない」窮状がしばしば語られています。具体的なことはよくわかりませんが、「寮生の中に内面的な問題がいろいろと出て、不平、不満の念が醸成されつつ」ありました(108頁)。

 そして、読む側にとってはやや唐突に、5月4日の夕食後、神田大尉が寮生全員を集め、「北進寮の存廃に係る重大な問題」を提起したのです。不平不満の「果ての自堕落な態度」を叱り、1.このままなら寮存続の意味がないので北進寮を解散する、2.不良分子を排除しやる気のある者だけで再建する、3.反省して全員が一致団結して邁進する、のうち一つに決せよ、というわけです。

 協議の結果第三案に決定したということですから、なんだか出来レースのような気もしますが、わずか3日後に、石森など4人が厳禁されている盗み食いを神田顧問等に見つけられ、厳しく叱責された挙げ句に出て行けと怒鳴られるや、第一次生で大谷学生の川崎進があっさり退寮してしまいました。「この一件以後われわれと神田先生の間には大きな溝ができた」と石森は述懐しています(112頁)。

 いささか腑に落ちないのは、東宮の私塾であるとして、神田大尉が廃寮の提案までしたことです。

 『饒河少年隊』の記述に基づいて、神田提案の日からしばらくの間の一連の流れを年表にまとめてみました(資料1)。川崎が退寮した翌日の集合写真は東宮公館員を中心とした記念アルバムに掲載するためですが、なんの記念なのか、気になります。その翌日、神田大尉は出張予定でした。

 第三次寮生募集の萌芽

 6月8日、饒河の嗎頭に到着した汽船新京号には、大谷光瑞の経営する大連の大谷授産場から贈られたホームスパン(元来は家庭で紡いだ手織りの毛織物)の機械類と、友部の日本国民高等学校から送られた大太鼓が積まれていました。

 機械類は、寮生達の不安定な心情を心配した東宮が大谷光瑞に折衝し、大谷の厚意で贈られてきました。まもなく寮生にとって先輩の大谷学生の2名が技術指導に来驍しています。

 大太鼓は起床や点呼時の合図に用いられることになりますが、それはのちの内原訓練所の光景に重なります。東宮が依頼して加藤完治が応じたというよりは、むしろ逆と考えるのが自然かも知れません。

 大太鼓到着から2週間経った頃、加藤は第一次開拓団の山崎団長と第二次開拓団の宗団長とともに饒河を訪問、視察しています。

 加藤はそのあとすぐに、「饒河の諸君はよくやって」いるとして、「来年あたりはここに大きな移民の訓練所を設置する考え」がある、と『弥栄』に書いています(資料2)。東宮は30人を予定していたので第二次寮生までで目標達成のはずですが、加藤は新たな募集を構想しているように思われます。

 

千客万来、「匪賊」も来襲

  加藤や開拓団長一行の饒河視察後、7月3日には満洲国軍政部最高顧問の佐々木到一少将が来饒しています。「この頃は正に千客万来の感があっ」たと、石森は当時を振り返っています(117頁)。饒河少年隊に関心を示したのは、加藤完治ばかりではなかったのです。

 とはいっても、北進寮の空気がぎくしゃくしていることに変わりはありません。5日に現れた東宮の本来の饒河入りの目的は不明ですが、面白おかしい話ばかりをして寮生達を和ませています(120頁)。

  東宮が去った翌日、三義屯に「匪賊」が「来襲」しました。『饒河少年隊』によれば韓国独立をめざす朝鮮人共産主義者(共匪または共産匪と表現することも多い)の集団で、反満抗日勢力の中心になりつつあった中国共産党と組み、「東北中韓抗日連合軍」を結成する動きもあったようです(121~122頁、石森は満洲国軍政部「満洲共産匪の研究」から引用している)。

  北進寮でも「一時は少しばかり緊張」し、夜間警備に立つと、「満軍や警察隊の警備がものものし」いことに一層緊張感を募らせたようです。東亜局の「昭和十一年度執務報告」によれば、1936年は、「匪賊勢力」の4割が三江省と浜江省に集中し、同年4月から3年計画で取り組む「満洲国内治安粛清予定目標」の重点地区として、三江省ではとりわけ饒河及び湯原方面をあげています(資料3)。

石原完爾ゆかりの幹部職員の退寮        

 そうした状況にありながら、8月に入ってまもなく神田大尉の内地異動の噂が流れ始め、実際、9月12日に飛行機で帰国してしまいました(資料4)。まだしばらくは匪襲に備えるべきとされる期間に、最重要警戒地区の軍事顧問が満洲を去るという事態は不可解です。寮生達には数日前に、「自分がいつ迄もここに居るとお前達の邪魔になるので近く帰国する」と話していますが、少々大人げない言い方です(125頁)。本当にそれが理由なのでしょうか。

  神田大尉の帰国より5日早く、辻清瀬寮母も饒河を去っています。わずか1年の滞在でした。あまり寮生達に慕われず、饒河の生活になじめなかったようです。辻寮母の離驍の理由として、石森は、親戚でもある神田大尉が辻寮母をひとり残すことが不安だったからではないかと推測しています(125~126頁)。

 親戚というのは、辻寮母の長姉(豊瀬)の娘(本子)が神田大尉の妻という関係ですが、一方で寮母自身は石原完爾の父、石原敬介の妹(直)の子であり、石原とは従兄妹(いとこ)同士です。長女(和歌子)は石原の次弟(二郎)と結婚しています。神田大尉と石原完爾も遠くはあるけれど親戚同士というわけです(資料6)。

 振り返れば1932年6月、石原は加藤と東宮を対面させて武装移民を実現しています。その翌年、第二師団歩兵第四連隊長として仙台に赴任すると、加藤に南鄕村の「説得」を依頼し松川校長の移民計画をブラジルから満洲に変更させるなど、国内から満洲移民を推進しています(14号資料10及び資料7参照)。

  1934年7月に西山勘二の遺骨とともに帰郷した東宮は、仙台に石原を訪ね饒河少年隊の構想を打ち明けました。創設目的である「極東共和国建設」は、そもそもが石原の東亜の連携論を土台にしていると思われます。神田大尉と辻寮母の派遣を石原の采配と考えて矛盾はないでしょう。

 

加藤完治的なるものの拡大

  藤勝男が農業指導員として饒河に到着するのは11月5日ですが、神田大尉が離饒する直前の9月1日、同10日付で東宮が藤に送った書信には感謝の言葉や農業指導を一任する旨が認められています(石森『饒河少年隊』130~131頁、元資料は『東宮鐵男伝』所収)。神田大尉在饒中にすでに藤の赴任は決まっていたようです。石森ら第一次寮生、特に大谷学生は農業が主目的になるのは困ると嘆いています(資料5)が、神田大尉にも同じような思いがあったのでしょうか。

 藤指導員と加藤完治や国民高等学校との関係は不明ですが、藤が饒河に着任してまもなく、日本国民高等学校から「トラックターの平島先生」が来寮し、加藤校長の存在感が大きくなりました。平島は、大和村に建設、整備されつつある農産物加工場などに設置された機械類の修理方法を指導しています。

  石森ら大谷学生は、将来ここは「農業移民国」になるらしいといった表現で、北進寮の変化をかぎ取っていました。石森は、この頃から饒河少年隊がのちの「青少年義勇軍の基礎となる動き」が進められていたのだろうと当時を振り返っています。

 

 とはいえ、北進寮の将来については幹部クラスにも意見の相違はあったらしく、「種々画策」する一方で、寮生間の空気も動揺していました(資料8)。そうした12月のある夜、法元先生から来年夏にトラクターが配置されると聞かされて、「これで農業本意の大和村北進寮になることが確実」になった、と認識を新たにします。

 もちろん義勇軍制度が確立する1年以上前のことですから、義勇軍との関連など思い至るはずもなく、「友部の国民高等学校の応援くらい」のことと受け止めています。

 トラクター配置を発表した法元先生が、これで「大和村の発展は火を見るより明らか」と前向きに話したのも、この段階では寮生の受け止めと同じであり、本音だったのでしょう。先の話ではありますが、8ヶ月後、第三次寮生の入寮と入れ替わるようにして、法元先生も饒河を去っています。

 

東宮鐵男的なるものの残照  

  1936年の年末を迎える頃、ソ連領の鉄路の爆破を夢見ていたという石森らは、その可能性もなくなったと、「空ろな気持ち」を抱えていました。けれど、2年前、第一次寮生13名が入饒してまもなくの1934年11月3日付「烏蘇里大和村現況」(14号資料2)には、建設の目的は「農業移民及烏蘇里地方ノ開拓先駆者ノ養成」とあり、農業開拓も大きな柱の一つではありました。饒河少年隊も「極東共和国建設の尖兵」の側面ばかりではなかったわけです。東宮鐵男が、藤農業指導員に対して歓迎、感謝の思いを伝えているのもおそらくはホンネでしょう(資料9参照)。

 大和村北進寮は創設当初から「自力建設」、「独立自営」を指導方針に掲げてきました。その意味では、神田大尉の異動と前後して寮生の「自治共同の体制」が整備されたことは大いなる成長といえそうです。「大和村村会」を開き、合議制でさまざまな取り決めをしています。12月1日の第5回村会では、寮の機関誌 『大和』 の作成などを決めた最後に、「我々一同が法元先生を中心とした大和村建設の方針に向かって一致団結して進まねば、将来この大和村が訓練所式の単なる移民国にされてしまうから、大いに頑張ろう」と決議しています。

  年末から年始にかけての半月間、東宮は饒河に滞在し、寮生達との触れあいを楽しみました。大晦日には、「若人と希望の春を国境」と詠んでいます。

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