「満蒙開拓青少年義勇軍」小史第15号(一條三子)

VOL.3<第0次年(1937年)の満蒙開拓青少年義勇軍>

NO.5 饒河(ジョウガ)少年隊 その3 第一次、第二次寮生(補)

※煩雑を避けるため、”満洲”を””抜きで満洲と表記します

前言撤回

 本紙13号で、饒河少年隊は第三次まであるが、3区分でなく2区分に整理すべき、と提言しました。その理由を、募集の違いや東宮鐵男との関係で説明し、2回目の前号では第一次と第二次をまとめて紹介しました。そして、本号で第三次寮生について述べて、饒河少年隊の最終回とする予定でした。

 しかし、前号でも明らかな通り、第一次と第二次の間にも違いはあります。両者の募集は連続していて東宮主導ではあるし、両寮生間の仲間意識もそれなり強く、第三次寮生に対するものとはまったく異なります。それでも、第一次寮生だけの期間と比較すれば、第二次寮生が加わってから、北進寮の性格も雰囲気も少しずつ変わっていきました。第三次寮生が入寮するより早くから、のちの青少年義勇軍につながる変化が始まっていたのです。

 そこで、第一次と第二次をまとめて14号で、第三次を本号で紹介する、という前言は撤回し、今一度、第一次及び第二次寮生の時代を振り返ることにしました。特に創設から数ヶ月間の、北進寮の体制が整う時期を改めて掘り下げ、饒河少年隊が初期にめざしたものは何か、変容していく背景に何があるのか、探ってみたいと思います。

 第二次寮生が加わってから始まる変化、及び第三次寮生については、次回改めて述べて最終回とします。 

                  

石森克己 『饒河少年隊』 が描く一年目

  1934(昭和9)年10月8日の朝、ウスリー江を遡上する長い船旅を終えて饒河の埠頭に上陸した第一次寮生の、少年移民としての生活が始まりました。

  「先発隊の一員として」、饒河少年隊の「実録を正確にまとめて、世に残したい」一心で、「当時の隊員の協力を得て、できるだけ完璧を期」して書きあげたという石森克己の 『饒河少年隊』 は、「先発隊」すなわち第一次寮生だけの時代の饒河をどのように描いているのでしょうか。

 資料1は同書に引用されている当時の「寮日記」のうち、渡満した1934年内3ヶ月足らずの記録の抜粋です。寮生が順番に担当して書いていたようです。

  中国語は饒河到着直後から始まった学科でしたが、大谷学生はすでに大連で「北京官話」を修得していたため、「だいぶなまりのある満州語にいささか抵抗を感じ」ながらも「町へ出ての日常のちょっとした会話には、そんなに不自由はしなかった」とは石森の回顧です。12月に入る頃からはロシア語の学科も始まりました。

 のちの義勇軍訓練所と同じように、食事は当番制で自炊し、夜間警備もしましたが、饒河市内はもとより、本来禁止のソ連との国境の中洲に行くなど、かなり自由な雰囲気でした。寮生自身、饒河少年隊のめざしていたものを、よくわからないが「人間形成の場」で、「そのための自活であり、そのための農業」と自負しています。

関東軍と饒河少年隊

  前号の最初の項 「創設に関して腑に落ちないこと」 に戻ってしまうのですが、「東宮の私塾」と称される北進寮の最高指導者について、塾生は当初、饒河入りのウスリー江航行途中から加わった神田泰之助大尉と認識されました。ただ、その人物像については、関東軍司令部付で満洲国軍の軍事顧問とまではわかっていても、石森ら塾生にとって最後まで謎の人物のようでした(資料2)。

 第一次、第二次寮生の名簿が掲載されている「北進寮現況」は、寮生に先だって幹部名も載せています(資料3)。それによれば、神田は東宮と同じく少年隊の「顧問」(後述の満洲国軍の顧問とは別と思われる)であって、具体的な役割などは記されていません。

  ところで、関東軍は満洲を完全に領有するか、見せかけの独立国家をつくるか、検討の結果後者を選んだわけですから、「満洲国」国家としての組織を整えなくてはなりません。軍隊についても同様です。ただし、中国国内の動乱を利用してつくった傀儡政権ですから、軍隊は烏合の衆、まずは寄り合い所帯の武装集団をまとめなければなりません。とはいえ、真の中国人国家建設のための軍事組織に成長することは阻止しなければなりません。そこで、満洲国の建国と国軍の創設早々に送り込んだのが、日本人将校等の顧問、軍事教官でした(その経緯の一部が資料4)。

 東宮も神田も、三江省依蘭地区の「地区指導」を任務とする「軍事顧問」(資料5)です。東宮は省内あちこちの「匪賊討伐」に奔走していたようですが、神田は饒河市内の神田公館に所在することが専らだったようです。つまりは饒河少年隊の指導、監督が最優先業務ということなのでしょう。

 石森書は、12月11日に「待ちに待った匪賊討伐」(資料1)に出たときに、「神田大尉も私服姿で随行」したと、なんだか神田は従の立場のような表現ですが、これこそが顧問としての本来業務であったと思います。実戦とはほど遠く、少年達の、「軍事教練の一端」のような「匪賊討伐」で、翌年2月にも実施しています。

 実際にはアテにされていなくても、満洲国軍顧問にして関東軍司令部付の神田大尉に率いられて匪賊討伐に出ている以上、饒河少年隊が関東軍と無縁とは考えにくく、「東宮の私塾」と単純に断じていいものなのか、やっぱり腑に落ちません。

 一方、名簿筆頭の法元辰二(ほうが、ほうがん たつじ)寮長は、「歩兵少佐」の肩書き通り陸軍士官学校18期の退役軍人ですが、関東軍との直接の関係はなさそうです。東宮との個人的な関係で指導役を引き受けたのでしょうか。

「幻に終わった東宮少佐の悲願」

  法元寮長は、皇道、国語、漢文などの教科指導も担当しています。かつて大正天皇の侍従武官を務め、また離饒後には都内にある

神社の留守神主に任じられ、神道関連の本も書く異色の人物です。 

 法元の説く精神訓話や国体明徴論(同名の著書がある)について、石森克己は加藤完治と比較し、「農業実践者としての裏づけはなく、純学理的、宗教的なもの」だったと回顧し、優れた人格者として讃えています。 

  法元は少年隊に遅れて饒河入りしています。年明けの2月24日、東宮の「粛清示威行軍(しゅくせいじいこうぐん)」に同行してきました。この行軍について、石森書は以下のように説明しています。

 東宮が率いた行軍部隊の構成は、前号資料2で示した 「烏蘇里大和村現況」(昭和9年11月3日)の「目的 日満露人農牧業移民及烏蘇里地方開拓先駆者の養成」にぴったり重なります。北進寮の前で少年隊とともに撮った集合写真には神田大尉も法元少佐も加わっています。「極東共和国建設前衛第一軍」(もしくは大亜細亜聯盟国建国前衛第一軍)の中核部隊結成の記念撮影ということです(資料6、8)。

  石森は、「幻に終わった東宮少佐の悲願」について、もはや推測するしかないが、「真剣に何らかの目標を持ち、具体的な計画があったはず」としたうえで、少年達自身、それが「大和村北進寮の第一義的な目標」で、「そのための勉学、訓練、そして自活しながらその時期を待つための農業」と考えていました(60頁)。 

  石森は 『饒河少年隊』の原稿を書きあげてから、元蘭軍常勝隊で西山勘二亡きあと隊長になった堀小兵衛から当時の状況を聞くことができたとして、以下のように追記しています(資料7も参照)。  

 そして、イリン大佐ら白系露人部隊が蹶起したときの援軍部隊の隊長に法元少佐を予定していたというのです。「大和村北進寮、即ち饒河少年隊の設立は、当初の東宮少佐の頭の中では極東共和国建設の義勇隊としての意味が多分にあった」と、石森は結論づけています。


第二次寮生の入寮

  1年前に大規模な掃討作戦の結果制圧した義順号を大和鎮と名を変え、「建国前衛第一軍」の拠点に決めて軍旗奉戴式を行ったのが1935年3月6日、結果的には東宮にとってここが絶頂期だったと思います。 まもなく大きな事件が起こります。寮生の最年長、相田寅男の死です。3月17日に負傷し、20日に亡くなりました。石森は、関係者の意向もあって詳細は書けないが、不慮の事故には間違いなく、上笙一郎が著書(『満蒙開拓青少年義勇軍』) で断定するような中国人による狙撃などとんでもない「デッチ上げの作文」と憤ります。ただ、東宮が 「名誉の戦死」と公表しているので、上の想像も無理からぬところはあります。

  東宮の従兄弟、東宮七男が戦後に当時を回顧した「骨を馬革に包む」には、東宮が3月末に群馬に帰省し、第二次寮生として甥の明次等2人を勧誘したことが記されています(資料9)。七男は、「他人の子供許りをすすめることに引け目を感じた」からだろうと推測していますが、相田の死との直接の関係は不明です。

 東宮明次の母親、つまり東宮鐵男の姉は我が子の渡満に反対でした。ここでも上は、明次が叔父を信じて入寮したものの、「厳しい自然と生活に失望し」て途中で脱落した、と手厳しい書きぶりです。上は、少年達の日常生活を当時の小説が教えてくれる、とも書いています。その一つに、東宮明次を主人公にした『饒河の少年隊』(加藤武雄、1944.2) があります。戦争賛美、戦意昂揚を目的にしているので、明次の入寮を母親も喜んでいるという設定です(資料10)。

 明次達は高等小学校卒業直後の4月に茨城県友部の日本国民高等学校に入り、3ヶ月の訓練後、総勢18名で渡満します。18名の国民高等学校入校時期はまちまちです。前号で紹介した通り、宮城県南郷村の5人はすでに前年5月から友部で訓練を積んでいました。

 南鄕からは第一次寮生として小林謙吾が参加していますが、5人が南郷高等国民学校の松川五郎校長の推挙で友部に移ったのは小林の渡満より早かったのです。7月13日、第二次寮生が北進寮に到着した日の寮日記は小林謙吾が当番でした。故郷の5人との1年ぶりの再会を、「長い間待っていた後発隊」と書いて、喜びを表しています(資料11)。

 

変わりつつある二年目

 石森は寮日記の引用に際して、書き手が重ならないように、などの配慮をしているようです。北進寮創設5ヶ月にしてようやく農場を開き(3月30日、資料11)、以後の引用記事は農作業関連が多くなりますが、農業一辺倒になったわけではなさそうです。

 7月13日に第二次寮生が到着し、9月には辻寮母が加わるなど構成メンバーが整い、製粉工場などの農場設備も充実しはじめ、「北進寮の建設は着実に進ん」でいる、と石森は感慨深く思いを吐露しています(89頁)。

 一方で、「先発隊と第二次の間」に少しずつ溝ができていたことを告白しています。その最初の溝の一つが、相田寅男の死をめぐるタブー事項の存在でした。

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