VOL.3<第0次年(1937年)の満蒙開拓青少年義勇軍>
NO.4 饒河(ジョウガ)少年隊 その2 第一次、第二次寮生
※煩雑を避けるため、”満洲”を””抜きで満洲と表記します
創設に関して腑に落ちないこと
まず、饒河少年隊創設に関わって疑問を呈しておきます。義勇軍の歴史全体に言えることですが、従来伝えられている事々には、伝承や主観的見解がそのまま「歴史事実」とされていることが少なくないと思うからです。
饒河少年隊構想のルーツについては、前号で述べた通り、蘭軍常勝隊長西山勘二が東宮鐵男に進言した「ウスリー地方移民突撃隊」案がベースか、東宮自身のアイデアであるか、がもっぱら伝えられてきた争点です。でも、正直な話、何か腑に落ちないのです。
前号資料2の『満洲開拓史』の末尾は、饒河少年隊について、「あたかも義勇隊の先駆」のようにいわれているがそうではない、でも「関東軍の肝煎で創設する義勇軍制度発足のヒント」になったことは間違いない、と曖昧な表現に終始しています。資料1の文章は、その続きです。ここでは饒河少年隊を「もともとは東宮の私塾」、と断定しています。でも、本当にそうなのでしょうか。表面上はそうかも知れないけれど、腑に落ちません。
資料2は饒河少年隊第一次寮生が饒河に到着しておよそひと月後(1934(s9).11.3)の「烏蘇里(ウスリー)大和村現況」です(『満州開拓と青少年義勇軍 創設と訓練』99頁)。前号資料8として紹介した「大和村北進寮々則」はちょうど1年後の日付で、北進寮創設の目的の第一條が「口伝」とされ謎めいていますが、当初は明記されていたことがわかります。(出典は1935年3月に事故死した第一次寮生相田寅男の遺言となっているので、実際に明文化されていたのか確証は得られてない。)
それにしても、口伝で「極東共和国建設の先兵」と抽象的な表現であったものが、「日満露人農牧業移民及烏蘇里地方開拓先駆者」と具体的なうえ、ロシア人が大きなウェイトを占めていることに驚かされます。「四.人員」によれば、ロシア人は50人計画ながら現状はそれを上まわる55人が在住。ただし、前号資料7の「大和村北進寮建設歴史」によれば、「昭和10年2月19日」に「旧露国大佐イリン以下白系露人55名を饒河県義順号に移住」させ「大和村を建設し北進寮生の農場候補地」としたとあり、少年隊とは別地入植の農業移民のようです。
ところで、ロシア民族は「共和」すべき「五族(日・満・蒙・漢・朝)」どころか、陸軍の宿敵ソ連の人々のはず。 1917年のロシア革命で誕生した社会主義国家ソビエト連邦には革命を恐れ国外に逃れる人々も多数あり、彼らは白系ロシア人と呼ばれ世界各地に離散しました。関東軍は満蒙に流入したこれらの人々を警戒する一方で防諜等に利用することも画策しています(資料3参照)。
東宮鐵男は饒河少年隊創設の1934年9月頃、「満洲国軍政部顧問」であり「関東軍司令部付」です。前年10月には「富錦特務機関長」も下令されました。このような関東軍及び満洲国軍の要職にあり、しかも防諜に関わる軍人が、純粋に私的な教育活動だの白系ロシア人の活用が可能なのか、どうにも腑に落ちないのです。
電光石火の第一次寮生送出
西山勘二が剿匪作戦中に斃れたのが1934年6月18日、同郷でもある東宮鐵男が西山の遺骨を群馬県新治村の遺族の元に届けたのが8月17日、そのひと月足らずのちの9月11日には国内から参加する饒河少年隊第一次寮生5人を神戸港で出迎えています(『満州開拓と青少年義勇軍 創設と訓練』)。
西山が進言した1月以来構想を練っていたとしても、驚くべき早さと実行力です。まして、東宮自身の日記によれば、西山戦死後の7月11日から29日までの間に東宮公館員三宅一とともに饒河一帯を踏査して北進寮等の候補地を選定、帰国後には西山の葬儀と東宮自身の亡父の法事を済ませたあとの8月26日頃から、少年隊員の選定依頼等、国内工作に奔走しているのです。
東宮のすさまじいまでの行動力もさることながら、そうした東宮の要請に応じて寮生を集めた人物、勧誘されて渡満に応じた青少年に対して、いっそう驚きを禁じ得ません。
寮生の推薦者
前号資料1によれば、東宮が寮生募集を依頼したのは、第一次武装移民以来の「同志」加藤完治のほか、松川五郎と大谷光瑞(おおたにこうずい)の3人です。ただし、松川は当時宮城県南郷村立高等国民学校長で、饒河少年隊送出に関しては加藤の分身ともいえる立場にあり、松川推薦の少年は一般的には加藤の日本国民高等学校(茨城県友部)出身者等と同列に扱われ、「友部組」などと呼ばれています。資料4の第一次寮生名簿のうち、「入寮経緯」で「大谷学生」以外の5人全員が友部組です(資料5)。
宗教家であり文化人であり、中央政界にも陰に陽に大きな影響力を持つ浄土真宗本願寺派の元法主大谷光瑞(資料7)は、教育者でもありました。大連郊外の周水子(しゅうすいし)に建てた「浴日荘」に、全国から募集した少年少女を寄宿させ、国家有用の人材の育成をめざしていました。その中の少年8名が選抜されて饒河に送られたのです。「大谷学生」と呼ばれる所以です(資料6)。
名簿から、大谷学生は1937年8月までにすべて北進寮を去っていることがわかります。また後述する通り、第二次寮生に大谷学生は一人もいません。大谷光瑞は農業にも関心と理解が深かったそうですが、だからこそ過酷な自然環境の北部満洲における農業移民には懐疑的だったと伝えられています。
そうしたことから、東宮は当初加藤に全面的に頼ろうとしたが人数がそろわず、大谷にも支援を求めた、と解釈されがちです。第一次寮生石森克己の『饒河少年隊』にも、大谷学生の先輩のひとりが同じような推測をしていることが紹介されています(資料8)。
一方で、同じ資料の冒頭で石森が描く関東軍将校と光瑞の密接な関係からは、大谷学生が急遽参加を強いられたとは考えにくいと思います。13人の少年は饒河までの途次、満洲共和会主催の盛大な歓迎昼食会や満洲国軍政部最高顧問佐々木到一少将の祝宴に招かれるなど、破格の扱いを受けているのです。
歓迎はまだ続きました。東支鉄道で哈爾浜まで来るとあとはウスリー江の船旅になります。船を待つ間の1週間余は東洋ホテルに滞在、この間には中秋の名月の日に満洲国軍哈爾浜軍管区司令官の于深澂(ウシンチョウ)上将(日本軍では大将に相当)から月餅が振る舞われ、10日間の船旅は船室こそ三等(一般客室)ながら食事は一等船客並みでした。
これより前、大連で友部組と大谷学生が合流した直後の奉天では国民高等学校北大営分校に入校し、5日間訓練を受けています。この間の食事はハエがブンブン飛び交う食堂でのコーリャン飯で、「一同大いに驚かさ」れました。大谷カラーに東宮カラー、そして加藤カラーが入り交じった饒河までの旅だったようです。
ところで、少年たちの年齢を見れば、大谷学生は5人が15~16才で他も17才が2人と19才が1人、東宮の期待する「純真ノ年少者」にふさわしい年代層です。一方の友部組は19才の1人を除いてみな20才以上、年少者とは言い難い若者達です。
『満洲開拓史』 は、東宮から饒河少年隊の構想を打ち明けられたときの加藤の胸中を、「企てには大いに賛意を表し」 たものの、この時点では「まだ少年を満洲の大陸に送るなどということについては考えていない」(231頁)と推測していますが、確かにその通りの人選です。換言するなら、東宮鐵男の意をより適確にくみ取っていたのは、大谷光瑞の方であったのかも知れません。
石森克己の表現を借りるなら、「大谷学生はだいぶん軟派的な傾向があった」のに対して、友部組は「加藤完治先生仕込みのパリパリの硬派」で、国境の突撃隊にふさわしいのは友部組と早合点しがちです。
ところが、北進寮生活が軌道に乗り始めた1935年終わり頃、大谷学生の方が、「もっと広く深く勉強したい欲求と、農業を主にやる為、此処へ来たのではないとの考えがあり、極東共和国建設のかけ声は何時しか立ち消えの感のある最近の日常に、飽き足らないものを感じ」(石森『饒河少年隊』)ていたのです。このころには第二次寮生も饒河入りし、日本人30人の予定人員を満たしていました。
すでに始まっていた第二次寮生集め
資料9はその第二次寮生18人の名簿です。第一次寮生から遅れること10ヶ月の1935年7月に饒河に到着しました。「友部」すなわち加藤の日本国民高等学校で学んだ者が11名います。19歳までの未成年が6人と過半数ではありますが、最年少が18才ですから、まだ加藤はあまり若年層には関心が向いていないようです。
注目すべきは、友部組11人中5名が宮城県出身で、全員すでに前年のうちに友部に入校していることです。次項で詳述します。
かたや非友部組は7名、このうち5名が群馬県出身です。大谷学生を頼れなくなったのか、東宮と同郷ゆえのツテがあったのか、不明です。名簿の最後、最年少の2人は東宮の姉の子東宮明次と、明次の幼なじみです。
「まだ十五の子供で、母親はそんな遠い土地に手離したくなかった」(梁瀬春男『東宮大佐傳』1942) にしても、東宮の眼には理想的な年齢に映っていたかも知れません。
宮城県南鄕村と饒河少年隊
宮城県遠田郡南鄕村(現美里町)の特異な満洲移民の歴史について、本誌5号でその一端を紹介しています。同時に、満蒙開拓事業の本質にもわかりやすく的確に言及する『南郷町史』 (資料10)も、私にとって最高の参考書の一つと書きました。編さん委員長であり、満洲関連の項の執筆者でもある安孫子麟先生には、多くのことを直接教えていただきました。
はじめてお会いした2002年の夏にお借りした10冊前後の書籍の中に、石森克己の『饒河少年隊』と、第一次寮生の一人で南郷出身の小林謙吾をモデルにした小説『日輪兵舎』 (資料11)が含まれていたことは、きわめて示唆に富んでいたわけですが、当時は思いが及びませんでした。
もっとも、『南郷町史』 を読むかぎり、安孫子先生も大和村北進寮到着後の第一次、第二次寮生6人のその後について、あまり追究する術(すべ) を持てなかったように感じました。
一次の小林はじめ、二次の5人中3人が饒河少年隊解体後も饒河に残り(平塚信太郎は不明)、他の残留者も加えた11人で「大和村開拓協同組合」を設立して、饒河の地で独自の営農生活を始めています(石森 『饒河少年隊』175頁)。けれど、国策の開拓団や義勇軍などと異なる満洲移民について、『満洲開拓史』 などはすこぶる冷淡です。
「北進寮が事実上解体されたと思われる昭和12年から、昭和18年第三次義勇隊開拓団が入植するまでの間の約6年間は、義勇隊とは無関係の時期」(『満洲開拓史』233頁)として、あれほどもてはやした饒河少年隊の元隊員による共同事業を、義勇隊と無関係だからと看過しているのです。
ところで、南郷高等国民学校の松川校長が海外移民に関心を向けたきっかけは、加藤完治と同じく教え子から土地がないと訴えられたことによります。移住先をブラジルに求めた矢先に加藤完治を知り、満洲移民に変更して最初の募集に応じた5人の目的地が饒河でした。ただし、5人は南鄕で訓練し、友部で加藤の指導を1年間受けたうえで第二次寮生として渡満したのです。
第一次の小林謙吾は松川の一本釣りでわずか数週間のうちに他の4人の友部組とともに饒河に向かったことはすでに述べた通りです。
松川校長は、移民教育に偏りすぎと村議会から抗議され南郷を去りますが、むしろそれから移民事業への関わりを本格化させ、全国レベルの影響力も持つことになるのです (資料12)。
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