VOL.3<第0次年(1937年)の満蒙開拓青少年義勇軍>
NO.3 饒河(ジョウガ)少年隊 その1 変容する編成目的
※煩雑を避けるため、”満洲”を””抜きで満洲と表記します
饒河少年隊の概要
義勇軍が国策化された翌年(1939)に拓務省がまとめた「満蒙開拓青年義勇隊現況概要(「現況概要」)」で、饒河少年隊は「正に満洲開拓青年義勇隊の濫觴(らんしょう)なり」と評されています(11号参照)。
饒河少年隊とは、満洲国軍軍事顧問の東宮鐵男(とうみやかねお)が三江省饒河県饒河に創設した「大和村北進寮」の寮生およそ100名で構成する少年移民隊のことです。内訳は、1934(昭和9)年9月の第一次寮生13人、翌35年7月の第二次寮生19名(名簿は18名記載)、1年おいた1937年7月の第三次寮生64名です。
『満洲開拓史』を参考に時系列にまとめてみました(資料1)。発案者といわれる西山勘二の意見具申を起点とし、第三次寮生の義勇軍への編入ないし義勇隊開拓団への形式上の入植をもって終焉としましたが、異論、反論はあるかも知れません。
西山から東宮への献策が1934年1月、この年の9月には第一次寮生が饒河に向かっているのですから、起案から実施までまさに電光石火の早業(はやわざ)といえるでしょう。しかも、この時の13人のうち9人は19才以下の未成年、最年少は15才です。
『満洲開拓史』は、東宮が大人の開拓団に愛想をつかしていたように、彼の手足となって働いていた西山もまた大人より「日本の青少年」に期待を寄せたが6月に戦死したため、東宮がその遺志を継ぎ饒河少年隊の結成に到ったと創設の背景を説明しています(資料2)。
東宮鐵男が加藤完治とともに農業移民の大量送出実現に向けて奔走したのは1932年6月以降、早くも10月に実現させた第一次武装移民は、東宮の眼に「精神動揺」する者が多いと映り、不満このうえないものでした。そこで早速12月に第二次移民以後の人選について要望書を提出しています。その中で期待を寄せたのが、まずは第一次の実態から加藤完治の北大営国民高等学校出身者、そして将来期待できるものとして「純真ノ年少者」をあげています(資料3)。
それからわずか1年余りののちに、そんな上官の思いを忖度するかのような西山の献策があり、早くも9ヶ月後には饒河少年隊として「純真ノ年少者」の移民を実現したというわけです。おとなの農業移民でさえ、第二次武装移民の送出を終え、第三次移民団が綏稜(スイリョウ)県向けて渡満する少し前の時期です(10号参照)。きわめて早い段階から未成年の移民は始まっていたことになります。
饒河少年隊編成の目的
① 西山勘二のめざしたもの
饒河は満洲国東端の国境の街、烏蘇里(ウスリー)江を挟んでソ連と接し、当時鉄道は通っていません。(資料4、資料5は「饒河市街図、s9~10当時」)。東宮の初期の「吉林軍屯墾軍基幹隊」いわゆる武装移民に関する意見具申で、屯墾軍を配置すべき「牡丹江以東の10県」のうちの一つでもありました(1932.6.10付、9号参照)。
つまりは「匪賊」の横行する一帯、饒河少年隊第一次寮生が饒河に上陸する1934年10月頃、「北境地区防衛隊」は依蘭方面の土竜山事件鎮圧に引き続き、第二期として饒河地区の「匪賊討伐」のため移動してきています(資料6)。
西山勘二の率いる「常勝隊」とは、「東宮公館員を基幹として吉林軍の勇敢な兵士を選抜して加えた30数名」の武装集団のことです。そして、「東宮公館」とは東宮が現地中国人から借りていた借家のことで、出入りする東宮の私兵を「東宮公館員」と呼ぶのです。満洲国の吉林軍軍事教官となった東宮は、「向背もただならず、いつ背反して寝首をかかれるかわからない」立場になったことで、「命がけで自分を守ってくれる側近の兵隊」が必要と考え、「自分の息のかかった若い青年を集めて手兵としたのが始まり」 (桑島節郎『満洲武装移民』)です。
西山勘二は1932年7月に東宮公館員になるために渡満しました。東宮から直接勧誘されたのかも知れませんが、当初から同郷(群馬県)の東宮の名声に惹かれていたとも思われます。武装移民の実現に向けて、同床異夢の東宮と加藤がタッグを組んで奮闘している時期でしたから、両者の構想の違いや東宮独自の移民案を間近に見聞きし、思うところがあったのではないでしょうか。
『満洲開拓と青少年義勇軍 創設と訓練』(内原訓練所史跡保存会、1998)に興味深い指摘があります。西山は、「東宮に日本人の北満移民を進言した人」と紹介されているのです(66頁)。東宮は、日本人は農業移民として耐えられないから朝鮮人を入植させるべきと主張し、加藤がそれを否定したことばかりが伝わっていますが、その裏で腹心の西山による説得があったのかも知れません。
② 東宮鐵男のめざしたもの
東宮がどこまで西山の「日本人移民突撃隊」案を取り入れたのか不明ですが、『満蒙開拓青少年義勇軍』の著者上笙一郎(かみしょういちろう)は、「饒河少年隊のアイデアは、疑いようもなく東宮から出たもの」と断じたうえで、東宮が饒河少年隊に込めたねらいを以下のように推測しています。
上が満蒙開拓青少年義勇軍を「児童受難史」として徹底的に批判していることは、すでに述べてきました。饒河少年隊についても、第一次寮生相田寅男の不慮の死に関連させて、「大和北進寮の少年たちが非道な行為を何ひとつしなかったとしても、被植民国の民衆としての中国人にとっては、彼らの存在それ自体が侵略を意味するものであり、許容することはできなかった」と厳しく糾弾しています(相田寅男の死については資料7の四参照)。
こうした上の批判に真っ向から反論したのが、第一次寮生の一人、石森克己です。饒河少年隊に関して、「評価、解釈の仕方はいろいろあっても」自由だが、「事実でないことを事実とし、勝手な解釈をし、曲論されることを見逃すわけにはいか」ず、「実録を正確にまとめて世に残」すために『饒河少年隊ー大和村北進寮の記録ー』(1982)を書いたと、同書「はじめに」で強調しています。
事実でないことの一つが、「憂国前衛軍青少年突撃隊」なる表札です。石森は正確性を期すため、当時の関係者にも問い合わせ、「われわれの知るかぎりでは、表札らしきものは何ひとつ掲げられなかった」と断言しています(28頁)。代わりに、ということでもないでしょうが、石森は少年隊の名称や設立の目的についても当時の「同志」に確認し、「大東亜建設前衛第一軍」という名称を記憶していた元隊員がいたことを記しています(38頁)。
1935年12月28日に「依蘭地区警備司令顧問部」名で発行した12頁の小冊子「大和村北進寮」第1頁 「大和村北進寮々則」(資料8、奥付も)の冒頭に、饒河少年隊の目的が掲げられています。その第一條「口伝」の具体的な内容を、石森たち隊員は饒河で東宮から「じきじきに聞かされた」のですが、その主旨は「極東共和国建設の先兵となり、その礎になる」ことでした。「細部のことは同志の誰もがはっきりした記憶」を残していないものの、大筋では異論はなかったようです。名称は、「極東共和国建設前衛第一軍」が正しいようです。
それにしても、後の青少年義勇軍の「濫觴」と位置付けるにはかなり無理がありそうです。
③ 拓務省のめざしたもの
小冊子の一項目「大和村北進寮建設歴史」(資料7)は1935年7月の第二次寮生の入饒をもって終わっています。この年の12月発行ですから当然なのですが、1年おいて1937年に実施された第三次寮生の募集の主体が東宮でなく拓務省に変わっていて驚かされます。
『長野県満州開拓史』が掲載する募集要綱では、第二次寮生までを「先遣隊」と位置付け、「一般集団農業移民及自由移民ノ参考トモナルベキ
模範村ヲ建設スル」ために、第三次希望者を至急推薦するよう、各市町村に通牒しています。対象は15才から18才の青少年、「今後毎年募集ノ予定」ではあるものの、次年度以降の義勇軍より、これまでの農業移民の若年版といった内容です(資料9)。
それにしても、東宮鐵男が饒河少年隊に託した思いとはかなりかけ離れているようです。
3区分でなく2区分で
本号冒頭で引用した「現況概要」の前段は、「昭和9年秋より昭和10年春にかけ17、8才の日本人青少年30名故東宮大佐、加藤完治先生等の計画に依り、満洲国東部国境烏蘇里江沿岸の饒河県饒河に入植し饒河大和村を建設せり」、と書かれています(このあと「正に満洲開拓青年義勇隊の濫觴なり・・」と続きます)。つまり、第一次寮生と第二次寮生に分けるのでなく、総計30名を二期に分けて渡満させたと読み取れるのです。
改めて「大和村北進寮建設歴史」を読めば、1935年は第二次募集でなく「増員」です。饒河少年隊は第一次及び第二次と第三次ではまったく性格が異なるのです。そこで、次の14号で第一次・二次寮生について、15号で第三次寮生について、ともに義勇軍(そして加藤完治)との関係を踏まえながら見ていきます。
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