VOL.3<第0次年(1937年)の満蒙開拓青少年義勇軍>
NO.2 伊拉哈(イラハ)少年隊
※煩雑を避けるため、”満洲”を””抜きで満洲と表記します
伊拉哈少年隊の編成と送出
『満洲開拓史』は伊拉哈少年隊を、「まぎれもなく満蒙開拓青少年義勇軍の先駆」と位置付けています。この未成年移民隊の概要を定めているのが、「青年農民訓練所(仮称)創設要綱」(以下「創設要綱」)です。本誌第10号で要旨だけを紹介しましたので、改めて全文を右に掲載します。10号では「備考」を割愛しましたが、実はこの備考こそが伊拉哈少年隊編成、送出の直接の動機です。
それによれば、1937年7月15日の決定からわずか半月後の8月から訓練施設への入所を開始し、同月末には先遣隊第一班の百人を現地訓練所たる「靠山屯(コクザントン)訓練所」に渡満、入所させるという驚くばかりの性急さです。本当にそんなことができたのか、実態を確認しましょう。
ⅰ.第一班 100名はすべて長野の少年
8月末までに靠山屯訓練所に収容させるとした先遣隊第一班100名はすべて長野県に割り振られました。長野県は成人の開拓団も青少年義勇軍もともに送出数全国一位で、しかも飛び抜けています(次頁グラフ参照)。とはいえ、1932年から35年までの試験移民期間の開拓団員送出数は、山形、宮城、福島、新潟に次ぐ5位で、少なくはないけれど後年のような突出した人数ではありません。にもかかわらず、なぜ長野県なのか。
その考察は今後の課題とし、まずは 『長野県満州開拓史 総編』(長野県開拓自興会満州開拓史刊行会、1984)が伝える伊拉哈少年隊の募集から渡満までを時系列で整理します。すべて1937年内のことです。
7.28 「満洲開拓青少年移民募集要綱」を添付し、「本県ヨリ百名募集」を学務部長名で通牒
(満洲移住協会からの依頼、各市町村長、青年学校長、男女青年団長、在郷軍人分会長、男子中等学校長宛、満洲移住協会と県が募集主体)
7.27~8.5 県下8郡52か町村で募集打合会開催
~8.7 満16歳から19歳迄100人募集
8.4~14 御牧原修練農場で訓練し、県が採否決定
8.14~ 10日間内原の日本国民高等学校で訓練
8.19 さらに15名追加要請あり
遅くも23日中に内原農場に入場させるため市町村長に推薦方依頼
8.25 東京出発(117名応募、100名渡満)
8.30 哈爾浜(ハルビン)着、同地訓練所で訓練
8.31 饒河少年移民村建設作業応援に30人出向
9.6 他県の応募予定者不足分20人増加配当
9.14 伊拉哈到着 (緑字は第二班関連事項)
これまでに例のない未成年の満洲移民を100人も、しかも10日前後という短期間に集めるなど至難の業、と思うのですが、長野県では117名が応募し、県と満洲移住協会で選考の結果、指定通りの100名に絞り、8月末の期限に間に合わせるため同月25日に東京を発ち、30日には哈爾浜に到着しています。
ところが現地訓練所たる靠山屯訓練所がない!100人は哈爾浜に留めおかれ、満洲移住協会経営の哈爾浜訓練所でしばらく訓練したのち、満鉄寧墨(ねいぼく)線で移動、靠山屯訓練所建設予定地に最寄の伊拉哈駅に到着し、ここで越冬することになるのです。彼らを伊拉哈少年隊と呼ぶ所以です。
ⅱ.第二班 200名は山形、宮城で百人ずつ・・・
「創設要綱」備考に掲げられた第二班200名は、当初、山形県と宮城県に100名ずつ割り振られました。けれど、宮城県は割当数に遠く及ばず、それを補って9月15日に訓練のため友部の日本国民高等学校に入ったのは、山形、宮城を含む7県出身の青少年でした。
7県のうちには長野県も含まれています。上記年表から、第一班が国内訓練期間中の長野県に、さらに追加募集があったことが確認できます(緑字項目)。応募時点での各県の人数は不明ですが、10月上旬と12月上旬の2回に分けて渡満した7県の内訳と人数は以下の通りです。
ただし数値が資料によって多少異なるだけでなく、そもそも伊拉哈少年隊について理解していない県も少なくありません。むしろ、厖大な資料の収集と詳細な研究を継続している長野県が例外のようです。
たとえば、送出数二位の山形県の公式記録は右の通りです。いくつもの事実誤認を指摘できますが、なにより満拓と移住協会の役割を過大評価しています。「創設要綱」を鵜呑みにしているからでしょう。満蒙開拓政策を主導した随一が関東軍であることを満州移民史研究会が実証したのは、下書刊行後の1976年でした(『日本帝国主義下の満州移民』)。
当初は長野、山形と同数割当てられていた宮城県では県史等にも記述がないので、伊拉哈少年隊の存在自体ほとんど認識されていないと思います。私自身は数年前に小稿で、なぜ100人集められなかったのか、推測しました(「宮城県が送出した満蒙開拓青少年義勇軍」(『宮城歴史科学研究』88号、2022))。
1937年夏の宮城県は、伊拉哈少年隊以前に、城子河少年隊の送出(11号参照)があり、次号以降詳述する饒河少年隊の送出もあり、さらには全国に先駆けて着手した分村移民の負担も重なりました。この分村は遠田郡南鄕村(南郷型として長野の大日向型、山形の庄内郷型とならぶ分村形式の一つとされた)の有志によるもので、主導した松川五郎は南郷高等国民学校の校長として満洲移民教育を推進したのち、退職して加藤完治のもとで大量移民策の立案、実施の一翼を担っていました。南郷分村については村外からの指導です。
それやこれやで宮城県としてはいちどきに満洲移民候補を立てることになって、伊拉哈少年隊まで手がまわらなかったのではないか、と推測したのでしたが、そこには、初期の宮城県の満洲移民には南鄕村と松川五郎の存在が不可欠、という判断がありました。 けれど、いまは軌道修正をせざるを得ない思いになっています。なぜか、右の宮城県内各地の学校に遺された 『学校日誌』 に触発されたからです。右欄をお読みください(クリックすると拡大されます)。
加藤完治の役割
「創設要綱」は関東軍参謀部第三課が移民関係者を集めて1937年7月9日から15日までの日程で開催した会議の最終日に決定しました。そのため、戦後には「関東軍の走狗」とまで評されることになる義勇軍制度は、そのはじめから関東軍主導であったことが当然視されています。もっとも、10号で述べたように、2ヶ月後の9月14日に新京で開催された満洲拓殖委員会主催第一回移民団長会議(~17日)では、その「提唱者」として加藤完治が紹介されています。
伊拉哈少年隊300人はなぜ当初、長野、山形、宮城3県だけに割り振られたのか、『満洲開拓史』の回答は明解で、「加藤完治氏が、強い影響を投影させていたところであった」からと断じています。具体的には、
などと、個人名をあげていますが、はたしてそんなに単純なものなのでしょうか。試験移民の時期から加藤が古巣の山形県を頼ってきたことは確認してきました。宮城県南郷村の松川が加藤と太いパイプでつながっていたことは上述の通りです。1937年という義勇軍の濫觴期、いわばゼロからの出発では加藤のこれまでの蓄積が最大限活用された、ということでしょうか。加藤自らこの2県を推挙したのかも知れません。
長野県の西村富三郎については『満洲開拓史』の説明に無理を感じます。西村は東大農学部時代から加藤との関係はあり、滋賀県生まれながら長野県農事講習所に赴任したのも加藤の推薦によるようです。加藤が西村を長野県とのパイプ役にすることは充分に考えられますが、長野県は1935年に県独自の第一期10か年移民計画を立て、翌年の第五次開拓団に県独自の黒台信濃村の開設を認めさせるなど、他に追随を許さない移植民行政を展開し始めていました。伊拉哈少年隊100人の割当ても負担以上に名誉と意識したかも知れません。西村個人をアテにする必要はなかったと思います。(『長野県満州開拓史』第二章、三章等)
「靠山屯訓練所」の実態
「創設要綱」に記されている「靠山屯訓練所」について、『山形県史』は「嫰江(ドンコウ、ノンコウ、ノンジャン等)開拓訓練所」と表現しています。翌1938年3月に予算が通って青少年義勇軍が国策となって以降は 「嫰江訓練所」 に定まります。
「創設要綱」によれば、訓練所建設の任を負うのは満拓です。右は、その建設班を監督した経営部長中村孝二郎が書いたと思われる手記です(『嫰江訓練所史』 )。伊拉哈少年隊第一班が到着した時には訓練所はまだ未完成、どころの話でなかった実態が読み取れます。
結氷する冬期を迎える前には三千人収容可能な状態にしろ、という実態無視の加藤の無茶ぶりに手を焼いていますが、逆に完成させたとして加藤に三千人送出のアテがあったのでしょうか。いずれにしろ、「創設要綱」に基づいて始まった「青年農民訓練所」建設に加藤が大きな関わりを持っていたことは確かです。
しかし一方で、竜江省嫰江県の訓練所建設地一帯は「全満一の匪賊」の出没する地域だった、と訓練所幹部の一人は書き残しています
(『嫰江訓練所史』184頁)。とりあえずは猪突猛進の加藤を全面に立てながら、入植地や訓練場を兵站基地化していく関東軍の周到な計画が透けて見えてきます。1932年の第一次武装移民送出までの経緯が思い起こされます。
それにしても、越冬に備えて伊拉哈駅周辺に少年隊員自らが建てた仮宿舎は、「屋内でいかに採暖燃料を使用しても、室温はかろうじて零度を超す程度」で、「体質弱き者は病弱者として脱退する悲運を甘受」しなければならなかったほどの劣悪な状態でした。
けれど、「義勇軍計画の立案者ならびにその運営担当者の責任」は軽くはない、と推進役の満拓職員が断じるほどでありながら、そうした現地情報がもたらされることもなく、国内では着々と青少年義勇軍の国策化に向けた動きが進んでいくのです。
「公募」実証
宮城学院女子大学大平教授から、たまたま今年調査した学校日誌にも同様の記事があった、と連絡をいただきました。右の加美郡中新田尋常高等小学校です。上述の登米郡佐沼小学校が役場から募集の通知を受けた8月19日から2週間近く経っていますから、まったく同じ通達なのか追加なのか一概には言えませんが、9月半ばの日本国民高等学校入校には間に合う時期です。宮城県も長野県同様、役場を通した正式な公募であることが確実になったと思います。
山形県は傍証の域を出ないものの、『山形県史』 に「銓衡採用」と明記されているので公募と見ていいと思います。ほぼ同時期に集められた城子河少年隊(宮城)と哈達河少年隊(山形)が非公募であったことと対照的です(11号参照)。
では、宮城県の不足分を補った他県(岩手、新潟、愛媛、埼玉)はどうだったのか、残念ながら今のところ、把握できていません。
埼玉県の場合、『曠野の夕陽ー埼玉県満蒙開拓青少年義勇軍の悲劇』(県史編さん室、1984)さえ、「北安省に入植した伊拉哈少年隊の第二陣には、本県から2名が加入していた」とのみの記述です。実態を把握していないだけでなく、存在自体理解できていないと思います。私の手元には比企郡数町村の役場文書があり、満洲移民関係として綴りができている村もありますが、関連した通達文等は発見できませんでした。
僅少とはいえ実際に伊拉哈少年隊を送り出した県でさえこんな具合ですから、該当者ゼロの40府県はまったく蚊帳の外に置かれていると思っていました。ところが、『広島県満州開拓史 上巻』に大変興味深い資料とその紹介がありましたので、右に掲載します。
◎ 嫰江訓練所 第三次渡辺中隊 末広一郎さんの記録 (『満蒙開拓平和通信 5号』 2022)
今年5月に98才で急逝した広島県在住の末広一郎さんは、1940年、第三次の広島県郷土中隊の一員として渡満し、嫰江訓練所を経て義勇隊開拓団に移行、現地召集を受け、帰国は4年間のシベリヤ抑留後でした。
『嫰江訓練所史』 の編集に関わり、その後も『満蒙開拓平和通信』の製作や講演などを通して満蒙開拓青少年義勇軍の歴史を伝え、平和を訴え続けてきました。
「嫰江訓練所の第一次の先輩達は大変な環境の中で建設作業ばかりやらされていた」ことを、私自身は亡くなるひと月前に直接話していただきましたが、2年前に文章に遺していましたので、一部を紹介します。
「建設を前にして」以降は、満蒙開拓青少年義勇軍が国策として正式に発足してからの嫰江訓練所の実態です。
本誌ではまだかなり先のテーマになりますが、この期に及んでなお訓練所施設は未完成、というか、むしろここから本格的に建設が始まったことがわかります。
▼PDF版は以下からダウンロードできます