「満蒙開拓青少年義勇軍」小史第11号(一條三子)

VOL.3<第0次年(1937年)の満蒙開拓青少年義勇軍>

 NO.1 第四次城子河(ジョウシガ)、哈達河(ハタホ)開拓団の少年移民

※煩雑を避けるため、”満洲”を””抜きで満洲と表記します

本当に1938(昭和13)年がスタートなのか

 第一次満蒙開拓青少年義勇軍とは1938(昭和13)年に編成された70 個足らずの義勇軍中隊のこと、ではありますが、未成年男子による農業移民の発想自体は武装移民の頃から芽吹いていたことを、これまで述べてきました。このシリーズでは、実体をともなう第一次年隊以前の「青少年義勇軍」について、大きくは三つの例に分けて紹介します。

 その嚆矢は1934(昭和9)年まで溯ります。

 右は拓務省が義勇軍開始翌年の1939 年11月にまとめた「㊙満蒙開拓青年義勇隊現況概要」(以下「現況概要」)の最初に掲げられている「義勇隊設立の経緯」の一部です。冒頭、「昭和9年秋より昭和10 年春にかけ」てと書かれているのがそれですが、「饒河(ジョウガ)少年隊」のことです。このシリーズではNO3(第13号)から3 回にわたって詳述します。

 次にあげているのが「昭和12 年7 月新京に於ける関東軍拓務省出張所等」による、いわゆる新京会議で決まった「現地訓練所に収容訓練する」3 万人です。その先遣隊を「伊拉哈(イラハ)少年隊」とも呼びました。次回、述べます。

 同年秋の明治節(=明治天皇の誕生日: 11 月3 日)に国内で近衛首相はじめ閣僚等に提出された「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」では、これら2 例の未成年移民をあげて「断然一般成人の移民を凌駕」していると絶賛し、できるだけ早期に「青少年義勇軍」の断行を、と提言しています。建白書については次のシリーズで詳しく分析したいと思います。

 上記の2 例とも1938 年以前に実施され、青少年義勇軍の「濫觴(らんしょう)」という位置付けです。あくまで義勇軍の正式な起点を1938年に置くからこその名称と言えるでしょう。

 右の『㊙青年義勇隊の話』は1941(昭和16)年、すでに第四次年隊を編成、送出した年に

作成されました。義勇軍の沿革を「濫觴期」「草創期」「建設期」の3 期に分けています。

 「濫觴期」として饒河少年隊をあげているのは上記「現況概要」と同じです。

 「草創期」では、1938 年を義勇隊初年度と位置付けてはいますが、前年の伊拉哈少年隊から始まり、翌年の義勇隊第二年度までを該当期間としていて、「初年度」にあまり重きを置いていない書きぶりです。冒頭の「城子河、哈達河の少年隊」は「現況概要」にはありませんが、この両移民団の少年隊が今号のテーマです。

開拓団への補充移民

 前号で1936 年2 月の移民団長会議の席上、第四次までの各団長がそろって労力不足を訴え、未成年移民の可能性が示唆されていたことを紹介しました。

 上は加藤完治が1935 年7 月に第一次の弥栄村を視察したときの「所感」の一部です。手塩にかけて指導したはずの北大営出身者の部落で中国人苦力を雇い、寝食まで共にしていることに怒り、叱責しています。中国人苦力はいつ「匪賊」に豹変するかも知れず不衛生でもある、苦力など雇わないで工夫しろ、という加藤に対し、団員側も労力不足でそうもいかないと引き下がりません。

 「ならば内地から青年を呼び寄せ労力の補強をすればいい」といとも簡単に応える加藤に、それが可能ならありがたいが、経費や必要物資の用意がないこと、それ以上に将来まで面倒を見る余力がないことなどを、団員側は重ねて憂えて見せました。

 それに対しても加藤は即答しています。「拓務省の第何次かの移民にできるだけ早く繰り込む」。

 

 本当にそんな軽妙なやりとりであったのかわかりませんし、「内地からすぐ青年を送ってください」と乞われて、「よし帰ったらすぐ準備する、何人ほしいか」と応じたというのもかなりの誇張と思います。

 

 加藤自身が書き残したものは事実との整合性をよくよく検証すべきと思いますが、右表で明らかなように、弥栄村の各部落中、北大営部落とそれ以上に山形部落の補入植者は多く、加藤の采配を推測することは可能と思います。そしてまた、移民団長会議に先立つこと半年の時点で、既設移民団の労力補充として青少年の移民を構想していたという事実は、満蒙開拓青少年義勇軍の初期の創設目的の一端を示すものと言えるでしょう。

 「城子河、哈達河の少年隊」とは、第四次試験移民の城子河開拓団と哈達河開拓団に補充として送出した少年達のことです。両開拓団の入植は1935 年、少年団の補充は1937 年夏です。

 これで、この年の夏から秋の間に満洲に送られた少年の集団が三つ出揃いました。1937 年を「第0 次年満蒙開拓青少年義勇軍」送出の年と位置付ける所以です。

 

「第○次年」という表記について

満蒙開拓青少年義勇軍(渡満してからは満洲開拓青年義勇隊)は一般に初年の1938 年送出隊を「第一次義勇軍(隊)」、あるいは「昭和13 年度義勇軍(隊)」などと表記し、以下第八次義勇軍(隊)まで続く。しかし、内原訓練所入所は3 月までに集中し、4 月に始まる一般の年度歴とかみ合わない。そうした実態を踏まえ、私自身の表記として、各年次を「第○次年」とし、その始期は原則として1 月を想定している。

 

第四次城子河、哈達河開拓団

 第四次移民は呼称の上では試験移民の段階ですが、第三次までとは異なる点がいくつもあり、満蒙開拓史の上で一つの区切りとなりました。

 異なる点の第一は、これまで在郷軍人会が担ってきた募集活動の直接の任が拓務省に移ったことです。第二に、募集の範囲が特定の府県から全国に拡大されました。そして、沖縄県を除く46道府県に割当人数が決められたことは、1937 年度から始まる20 ヶ年100 万戸送出計画における道府県単位、年度単位の詳細な割当予定計画の先駆的役割を果たしました。

 右のグラフは道府県ごとの配当数(『満洲開拓史』167~168 頁から一條作成、3~40 人など幅のある場合平均値を用いた)、応募数、推薦数、合格者数を示しています。割当数に大きな差があるほか、応募数ゼロの府県も目立ち、推薦数と合格数は近似の例が多いようです。これらが何によるものなのか、データを掲載する『満洲開拓史』にその直接の解説はありませんが、推測することは可能です。

 第四次移民がこれまでと異なる点の第三は、友部の日本国民高等学校の役割が飛躍的に大きくなったことです。募集要綱に渡満前の訓練を同校に「委嘱する」と初めて明示されました。

 満蒙開拓といえば加藤完治、と思われがちですが、実際には加藤自身の書いたものや、加藤を信奉または批判する人達の虚実織り交ぜた論評が独り歩きしている面も小さくありません。たとえば、第一次武装移民の実現に向けて国内の軍政界の要人間を飛び回っていたと加藤自身は自負する時期、関東軍の中に満蒙移民を統制する目的で民間からの移民請願はすべて許可しない方針であり、加藤もまたその一人と見なす声もあったといいます。それを東宮鐵男が石原完爾を通しておさえた(『満洲開拓史』73 頁)という記述の方が、加藤本人の述懐より信憑性は高いと思います。

 加藤本人も加藤が校長を務める日本国民高等学校も、満蒙開拓事業に関して、後年伝えられているほどの役割を果たしているのか、一つ一つの事例に則して疑って見ることは大事です(研究者の間では、たとえば「加藤完治は移民不可能論を単独撃破して満洲農業移民に道を開いたように語られるが、それは「肉弾戦士」などと同じ軍が作った「美談」の一つである」(玉真之介『総力戦下の満洲農業移民』)などという評価の方が一般的と言える)。

 けれど、第四次開拓団については、「加藤完治氏がつくりあげた完璧な開拓実験場」(『満洲開拓史』239 頁)という評価に納得せざるを得ません。それは以下の理由からです。

  1. 城子河の佐藤修団長も哈達河の貝沼洋二団長も加藤に近い人物であること
  2. 第四次募集年である1935 年内に先遣隊として入植した団員の過半が北大営から哈爾浜に移転した国民高等学校、もしくは加藤の提案でつくったとされる向陽山訓練所(第一次武装移民団の中に設営、先遣隊員の訓練を目的としたとされ1934 年11 月開所)で訓練した

1937年夏、少年隊の編成

 第四次試験移民の入植地は2 個所に分けていますが、募集人数は第三次までと同じ500 名(城子河300 、哈達河200)でした。各道府県に割当数を定めたものの、多くを推薦に頼ったのですから応募状況は思わしくなかったのでしょう。入植者数は458 名(城子河268 、哈達河190)です。

 労力不足の状態は最初からあったと思いますが、1937 年8 月、城子河に16 名、哈達河に14 名の青少年が送られました。募集要綱などで公募したわけではなく、城子河の方は全員宮城県出身、哈達河は山形県出身です。城子河の場合、佐藤団長が宮城県仙台市出身だから、と推測されていますから、哈達河の山形県集中は加藤完治の山形県立自治講習所以来の密接な関係によるものと考えていいと思います。少年隊もまた、加藤の強力な影響下にあったのです。

 城子河少年隊は6 月から1 ヶ月間友部の日本国民高等学校で訓練を受け、7 月12 日に出港、17 日に城子河開拓団に到着しました。開拓団の援農や警備、伐採などにあたり、「成人団員に劣らぬ活躍をし」ています。「将来開拓団の中堅人物」に育成することが狙いで、単純な労力の補充ではなかったのです(『満州開拓と青少年義勇軍創設と訓練』)。

 哈達河少年隊は7 月に日本国民高等学校で1 ヶ月の訓練後、8 月23 日内原出発、30 日に哈達河開拓団に到着、同じく成人団員に劣らない活躍をしました。

 『満洲開拓史』は、同じく1937 年夏に募集、送出した第三次饒河少年隊(15 号で詳述)とあわせて、これらの「青少年隊こそ、まさに義勇軍運動の前触れ」と断じています。

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