VOL.2 <「義勇軍」のルーツ>
NO.5 武装移民その3 (おとなから子どもへ)
※煩雑を避けるため、”満洲”を””抜きで満洲と表記します
「匪賊の多い沃野」
1932(昭和7)年10 月5 日、神戸港を出発した青森県以下11 県423 名の第一次武装移民は8 日に大連港に上陸し、鉄道で奉天まで北上、ここで日本国民高等学校北大営分校の60 名(他に先発した10 名)と合流して2 泊したのち、再び鉄路で哈爾浜(はるぴん)まで進みました。当時、南満州鉄道はここまで、入植地永豊鎮(えいほうちん)にもっとも近い都市佳木斯(じゃむす)までは松花江(しょうかこう)を船の旅です。
10 月14 日午後6 時前に佳木斯に到着、船中で一晩過ごし翌日午前7 時半、「勇躍して上陸」しました。なぜ、すぐに上陸しなかったのでしょうか。
「弥栄の軌跡」(松下光男著、『弥栄村史』第一章)には、「宵闇すでに深くして土地不案内なるのみならず陸上の設備亦整わ」なかったため、と記されています。この時、「偶々(たまたま)」佳木斯城外に「匪賊の大群」が来襲しました。そのことを伝える右の記事は「匪賊」の目的を吉林軍襲撃とし、「弥栄の軌跡」と同じ文脈で書いていますが、実際には移民団の上陸を阻止するための来襲でした。
佳木斯は通過地点、入植地はここから50 ㎞余り南の永豊鎮です。けれど、「当時の状況下にあってはこれを決行することはあらゆる点から云って不可能」であったため、「佳木斯に待機することとなり」、佳木斯の警備が任務となりました。すでに東宮鐵男の采配で宿舎が用意され、その門には「佳木斯屯墾軍第一大隊」の大きな木札が掲げられていたのですから、東宮にとっては計画通りの「冬営」でした。
団員の目に、当時の佳木斯は「匪団(ひだん)の横行に全く死の町の形装を持った町」(「弥栄開拓十年誌」)でしたが、永豊鎮はなお凄く、翌年2 月に先遣隊としてはじめて入った150 人は東宮指揮下の吉林軍とともに待ち構えていた「匪団」と戦闘、最初の戦死者を出しています。
右の図を見れば、第一次武装移民の入植地永豊鎮と、第二次武装移民の入植地湖南営(こなんえい、のちの千振村)は近接していることがわかります。この一帯は東宮いわく「匪賊の多い沃野」です。できるだけ未耕地の多い地域を、とも標榜してはいましたが、まとまった土地を確保することが優先されたのはいうまでもありません。
「匪襲」に動揺する開拓団
第一次武装移民が佳木斯での警護・越冬期間を経て永豊鎮に移動を完了したのは1933 年4 月です。その後は入植地周辺の警護に多くの時間と労力を費やすことになり、この年だけで戦死者が9 名、衛生状態も悪くアメーバ赤痢などでの病死者も4 名出ました。こんなはずではなかった、と退団者が続出します。
にもかかわらず、同年7 月には第二次武装移民が永豊鎮の南数十キロの湖南営に入植します。ともに三江省樺川県、いまだ「剿匪(そうひ)」の役割が期待されていました。さらに翌年の第三次移民団も、両移民団の中間地帯に入植が予定されていました。ところが、急遽、西に離れた浜江省綏稜県(1939~新設された北安省に移管)に変更されたのです(右図参照)。
背景に、1934 年3 月9 日に起こった土竜山事件(依蘭事件または謝文東事件)がありました。三江省依蘭県土龍山の農民多数(三千人から一万人まで諸説)が謝文東をリーダーとして武装蜂起し、永豊鎮、湖南営両入植地を襲撃、さらに土竜山警察署を襲撃して、応援に駆けつけた日満軍と交戦し飯塚連隊長以下10 数名を殺害した最大規模の「匪襲」です。日本軍による強引な土地の買収に対する反感に加え、銃器回収や種痘の強制への反発もありました。
関東軍の猛烈な鎮圧作戦で8 月頃までに事件は終息するものの、第一次、第二次移民の動揺は激しく、離脱する団員が跡を絶ちませんでした。それでも事件勃発直後に第三次移民募集の打合せが始まり、入植地の決定には紆余曲折があったものの、10 月に綏稜県の、のちに瑞穂村と命名される地に27 府県から259 名が入植したのでした。
当初の募集対象県は以下の16 県、温暖地方出身の移民も北満の気候風土に耐え得るか、という将来の大量移民に備えた実験的意味合いも込めた選定でしたが、計画数を大幅に下まわったためもあるのか、11 県の増加をみました。ただし、追加された県からの応募者は1~3 名と少数でした。
特筆しておきたいのが鳥取県のケースです。今回ははじめから募集の対象ですが、第一次、第二次では対象外で、初めてです。第一次が在満部隊の師管区に合わせた選定とされているので少し意外ですが、満洲を身近に感じるきっかけになったという指摘は重要です(右参照)。
「剿匪」から営農へ
土竜山事件のさなかに募集した第三次試験移民から、応募資格として必ずしも在郷軍人である必要がなくなりました。前2 回は募集活動の中心的役割を果たしていた在郷軍人会各支部も、協力的立場に後退しています。現地では最大級の「匪襲」が起こっているのになぜと、不思議に思うかも知れませんが、翌年の第四次になるとますます「武装」色は薄まり、徴兵検査を終えていることが応募条件となりました。沖縄を除く46 道府県に割当人数を決めたことも、これまでとの大きな違いです。
第四次の送出までが完了している1936 年2 月に、拓務大臣が官邸に各次の移民団長を集めて「移住地状況」を報告させています。「武装」に関連しては、各次移民団の実態は以下のような状況です。
第一次武装移民が渡満した1932 年10 月から3 年4ヶ月、会議の席上で各団長がもっぱら話題にしたのは営農に関した事柄でした。第一次隊は自ら「匪賊討伐」に出動するほどの武装集団の一面を維持していましたが、家族を招致してからは本来の農業移民団に変わっていったようです。山崎団長は、「大体自給の目途が立ってきた。既耕地が少ないので開墾したいが馬が少ない、トラクターがほしい」などと述べています。(右写真参照)
こうした表面上の平穏状態が実現した背景の一つとして、1933年5 月の塘沽(タンクー)協定の締結で満洲事変が終わり、関東軍による反満抗日勢力に対する「鎮圧」が進んだことが考えられます(小林英夫「満洲農業移民の営農実態」)。
関東軍の期待
1934 年11 月、関東軍特務部(1932.3.1 統治部を廃して新設) は「対満農業移民会議」を開催して、満洲農業移民の有意性を確認し、新たな移民政策案を打ち立てています(「満洲農業移民根本方策案」)。
土竜山事件が終息して間もない時期、会議に招かれた山崎団長は、第一次移民団も第二次も団員数が激減している実情を訴えながらも、少しずつ家族招致も始まって団員の新日本農村建設の決意は固いと語り、関東軍に「移民の成功を確信し、前途に明るい見通し」(『満洲開拓史』)を持たせたのでした。
まだ試験移民の段階でしたが、この時からすでに農業移民団に対する期待は、「剿匪」作戦の補助的役割でなく、食糧生産基地としての役割にシフトしつつあったわけです。
このためもあって、2 頁の「鳥取県史だより」に書かれているように、関東軍が直接移民地の確保、つまりは強引な土地買収を行ったため、現地住民の反発を招いていました。そこで、土地の買収等を満洲国に任せ、満洲国法人として満洲拓殖株式会社が創られました(前頁参照)。
子ども達への期待、営農から軍事へ
満洲移民は当初、自給自足を原則の一つとしていましたが、容易に広大な土地が手に入るため、入植地ではどこも早い段階から労力不足に陥りました。家族招致で故郷から親兄弟や親戚を呼び寄せる程度では到底追いつかず、安易な手段としては土地を収奪した現地住民などを安く雇用しました。
一方で、先述の1936 年2 月の団長会議では、「未成年移住者の採用に就いて」意見交換が行われています。「非常によいこと」と賛成する声もあがりますが、一人前の労力としてはあてにできないことや、徴兵検査との兼ね合いを案じる意見もあり、必ずしも歓迎一辺倒ではありません。
会議の最後に、「徴兵検査前の未成年移住希望者に対し現在の如く入植を許可せざる方針を固守する」ことは、本人を失望させるだけでなく満洲移住に対する気勢をそぎかねないので、適当な採用の道を開く必要がある、採用の方法としては訓練所制度を設けるか徒弟制度を採用すべきか研究すべきである、とまとめています。
1 年5 ヶ月後の1937 年7 月15 日、満蒙開拓青少年義勇軍制度の直接の契機とされる「青年農民訓練所(仮称)創設要綱」が関東軍参謀部で決定、発表されます(上参照、「備考」は後日掲載)。盧溝橋事件から1週間という時期と相俟って、義勇軍ははじめから軍事的役割が濃厚だったと思われがちです。けれど、日中戦争が本格化するのは盧溝橋事件から1ヶ月後とされ(小林英夫『日中戦争殲滅戦から消耗戦へ』)、創設要綱には開戦の直接の影響はほとんどなく、むしろ上述の団長会議などを踏まえた内容です。つまりは農業移民団の補完的役割がより強く求められているのです。
そのため、9 月に満洲拓殖委員会が主催した「第一回移民団長会議」において、「少年移民は今後移民事業の重大なる一部門となるべき」と紹介されています。「提唱者」の加藤完治は、「徴兵まで現地において精神的技術的訓練」をやり、それを終えれば「最も理想的な移民、最も理想的な満洲国人として満洲の建国に」努力する人になる、と力説しました。そして、各移民団長に訓練後の青少年の引き受け計画を立ててほしい、と要請しています。
同じ会議では、関東軍兵事部の陶村少佐が、在満未成年者の徴兵検査について、元来は「本籍地で受けるのが建前」だが、在満者は「願出に依」って満洲で実施すると説明しています。そして、検査に合格したらなるべく在満部隊に入営するように指導すべきと話していますが、その対象は必ずしも創設要綱で募集する青少年に絞ってはいないようです。
しかし、11 月の「満蒙開拓青少年義勇軍編成二関スル建白書」、「閣議決定」等を経て年明け早々に公表された義勇軍の募集要綱には、義勇軍は現地で徴兵検査を受け、現地で入営することが明記されています。成人の移民と逆に、青少年義勇軍ははじめ営農の役割に重きが置かれながら、日中戦争の拡大、対ソ戦の可能性の高まりとともに軍事的役割が加速度的に強化されていくのです。
▼PDF版は以下からダウンロードできます
コメントをお書きください