【1/14(土)開催】満蒙開拓青少年義勇軍 「濫觴期」から第八次年まで~「満蒙開拓を考える」 第 10 回~

【開催日】

2023年1月14日 (土)13:30~16:30(開場13:00)

 

【お話】 

一條 三子 さん

(放送大学埼玉学習センター及び跡見学園女子大学非常勤講師)


第六次満蒙開拓青年義勇隊 鐵驪訓練所 土生中隊昭和五十三年三月二十六日建立
第六次満蒙開拓青年義勇隊 鐵驪訓練所 土生中隊昭和五十三年三月二十六日建立

・・・青少年義勇軍濫觴期(※)から第八次年まで、各年次の特徴を教科書的に整理して紹介しようと思う。その際、各県各様の特徴があり具体例を挙げればきりがないので、宮城県を基軸に据える。

 

ところで、瑞巌寺拓魂碑を通して「発見」したことの一つが、内原訓練所の訓練期間が異様に長い中隊があることだった。このことが何を意味するのか、時間の許す限りでは触れたい。

 

※濫觴(らんしょう)…ものごとの始まりや起源

 

――講師の一條三子さんから届いた「講座概要」(ページ下部参照)から一部抜粋


資料準備がありますから必ず事前の申し込みをお願いします

 

★会場参加=新宿区男女共同参画推進センター(新宿区荒木町 16)

申し込み先=qq2g2vdd@vanilla.ocn.ne.jp(竹内)

参加費=1,000 円

 

★Zoom参加 参加費=600円 3日前までに①②のいずれかの方法で申し込みを!入金確認後にURL を連絡します。

①⇒http://ptix.at/DWRqhB 最初に各自アカウントを開設しますが、クレジット決済も可能です。送料・手数料不要

②⇒cfrtyo@gmail.com(有光)にメールを送った上で、郵便振替で送金してください。 手数料110円が必要

* 送り先は 00180-3-464926「シベリア抑留者支援センター」

 

★企画「ヒロシマ講座」/共催「満蒙開拓・拓魂公苑」を考える連絡会/協力 シベリア抑留者支援・記録センター

 

感染予防対策(マスク、手洗いなど)を十分にしてご参加ください


[講座概要]満蒙開拓青少年義勇軍 「濫觴期」から第八次年まで~おもに宮城県を具体例として

                                 一條 三子

 

 30 年ほど昔、埼玉県比企郡 3 町村(小川町、都幾川村、玉川村(2 村は 2006 年に合併して現ときがわ町) の自治体史編纂事業に参加し、いずれも戦時期を担当して思う存分聞き取り調査に奔走した。

 埼玉県立高校教員としては郷土部の顧問の立場で同じような活動をしていたから、両者を合わせれば数百人に上る戦争体験者やその周縁にある方々から貴重な証言をいただいたことになる。

 満蒙開拓青少年義勇軍の当事者だけでも 50 人は下らない。関係者を加えれば倍増する。1938 年の第一次年隊から 1944年の第七次年隊まで隈無く複数の元隊員から話を聞いて、漠然とながら参加年次単位に共通する入隊動機や動向が見えた。

 埼玉県では県史編さん室が『曠野の夕陽-埼玉県満蒙開拓青少年義勇軍の悲劇』(1984)を公刊している。コンパクトながら義勇軍の概要と県児の参加した中隊の隊歴が整理されているほか、各年次隊員の体験談も収録されていて、比企地域の取材成果ともよく合致した。

 埼玉の特徴は全国の特徴と共通する、など当時はあまり意識もしなかったし、そのあたりが整理されている研究書も一般書も見つけられなかったが、気にもしなかった。

 教員退職後、宮城県を往来することが多くなり、副次的には義勇軍に関する資料や情報も集めていたが、報告書等にまとめる状況からはほど遠かった。それが、景勝地松島の名刹瑞巌寺の境内にひっそりと佇む郷土中隊など5基の拓魂碑と、大崎市松山の桃源院に建立されている拓魂碑に遭遇、追究するに及んで、俄然これまで見えていなかった青少年義勇軍の全体像(本質)に近づく思いになった。

 東宮鐵男を大叔父に持つ群馬満蒙開拓歴史研究会主宰の東宮春生氏と知り合えたことも大きい。東宮氏からは東宮鐵男関連の資料を提供されただけでなく、研究会の講師役を4回いただき、私自身の満洲開拓史の再学習の機会にもなった。

 以上 3 県の比較から、埼玉と群馬の青少年義勇軍には共通項も多く、やはり埼玉県は標準的、と一時は信じたが、両県よりはるかに熱心と思った宮城県の方が実は平均値に近かった。さらには、どれだけ究明しても 1938 年以前の第〇次年=濫觴期に辿り着けるのはきわめて限られた県で、辿り着けない埼玉からは見えない世界であり、逆に宮城県には豊富な事例があった。宮城はまた敗戦の年に第八次年隊として郷土中隊が渡満した数少ない県の一つでもある。

 比企郡調査の時と異なり、宮城県の青少年義勇軍当事者にはまったく会う機会は得られなかった。証言はほぼすべて体験談として中隊史等に掲載されていたものによる。

 今回、講座で話をする機会をいただいたので、濫觴期から第八次年まで、各年次の特徴を教科書的に整理して紹介しようと思う。その際、各県各様の特徴があり具体例を挙げればきりがないので、宮城県を基軸に据える。

 ところで、瑞巌寺拓魂碑を通して「発見」したことの一つが、内原訓練所の訓練期間が異様に長い中隊があることだった。このことが何を意味するのか、時間の許す限りでは触れたい。

 今年、6月から数日前の 12 月 4 日までに水戸市内原を 3度訪ね、日本農業実践学園長(加藤完治が校長を務めた日本国民高等学校の後身)の籾山旭太氏に内原訓練所ゆかりの地や関連施設を案内していただいた。内原郷土史義勇軍資料館から 4㎞余り北にある武具池は2度探訪。

この池は 1943年12月から翌44年6月にかけて国内訓練中の義勇軍と農業増産報国推進隊員の作業によって従来の貯水量の10数倍に及ぶ池に改修されて食糧増産に貢献し、現在も周辺農家に用水を供給している。水田の一角に建立された「中妻土地改良区武具池水系受益農民一同」による農地改良竣工碑には、工事を中心的に担った義勇軍や報国推進隊への賛辞も刻まれている。1959 年の建立である。一方で、改修工事の過程で事故死した奈良県の郷土中隊訓練生2名の殉難碑が池のほとりに建てられている。1951 年の建立である。

 青少年義勇軍といえば関東軍に利用された側面が強調され、渡満後の実態や敗戦後の惨状を中心に描かれがちだが、はたしてそれだけで義勇軍史は語り尽くせるのだろうか。

 渡満前の国内訓練期間についての研究は皆無に近いが、私自身は義勇軍から食糧増産活動へ、そして戦時期の食糧事情の実態や農政のありかたへ、さらには農村と都市の関係へ、と半ば妄想的に思いが広がる。内原訓練所に近づいたことで、これまで霧の向こうにあった「甲種食糧増産隊=少年農兵隊」にも急接近することになった。