VOL.1 < 「義勇軍」探究への道> NO.1 当時、“満洲”は身近だった

“満洲”私事

 私の縁戚に「満蒙開拓青少年義勇軍」の関係者はいない。一方で“満洲”と関わりを持つ家族は多い。

 父(山田僚作)は小学校6 年の時に姉夫婦に連れられて渡満し、義兄(城登一タチトイチ、姉の夫)が教鞭をとる南満州鉄道株式会社(満鉄)立遼陽尋常高等小学校に転校、“満洲”、朝鮮で上級学校教育を受け、1938(昭和13)年に“満洲”で就職した。

 東京都日本橋区(現中央区)生まれの母が父と結婚、渡満したのは1944(昭和19)年5 月、すでに本土空襲が予想され疎開政策が始まっている時期だが、母の両親(祖父母)は“満洲”なら安全と考えた。

 義父(夫の父)は山形県の生まれ、早くに両親を亡くし小学校もろくに通えなかった境遇を打開するために選んだ地は“満洲”だった。単身渡満であり、開拓団や義勇軍とは無縁だが、山形という地が“満洲”を身近に感じさせていたのではないだろうか、と勝手に推測している(山形県の送出数は全国2 位、下のグラフ参照)。

城登一は1922(大正11)年1 月に愛知県から“満洲”に出向を命じられた。上はその時の給料証。

日露戦争に勝利して“満洲”南部の鉄道敷設権を清に認めさせた日本が、“満洲”支配の足がかり

として南満州鉄道株式会社を設立したのは1906年。鉄道の敷設、経営権のみならず沿線を満鉄付属地として統治する権限を獲得し、小学校等の教育行政をも担った。


 このように実の親、義理の親4 人のうち3 人までもが、長短はあっても人生の盛んな時期を“満洲”で過ごしている。父は義兄が“満洲”で病没したのち実姉と養子縁組みしたので、父方の祖父母も“満洲”関係者ということになる。

 父は“満洲”時代をほとんど語らず、1945(昭和20)年7 月の根こそぎ動員で召集され、敗戦とともにシベリヤに抑留された。晩年、私の勧めもあって、シベリヤの3 年間を中心に描いた自叙伝を遺した。

 母は日ソ開戦時は北満の佳木斯(ジャムス)にあり、引揚げまでの1 年間苦闘はしたが、問わず語りに語る“満洲”時代の思い出は、新京(「満洲国」首都、現長春)がいかに近代化された理想の都市であったか、というあたりだ。あの時代に建物全体にスチームが入っていたのよ、日本橋よりよっぽど都会だった、と目を輝かせる。

 義父は、つらかった山形での幼少期と比べ、“満洲”で日系の商社に雑用係として雇われてからは、かわいがられ幸福であったという。義父も抑留体験者だが、シベリヤでなく現在のカザフスタン・カラガンダ州の炭鉱に送られた。義母に言わせると、石炭採掘の重労働でなく事務的な軽作業のうえ、小食ゆえあまりひもじい思いもしなかったとか。真偽を確かめたことはなかったが、義父自身、多くを語らなかった。

 時代に翻弄された人生を、親は子にどこまで語り伝えようとするものだろう。語られないことは見えず、語られたことから垣間見える“満洲”は、本などで得た知識や社会に流布する情報と大きく乖離している。

義勇軍との邂逅

 3 年余りのシベリヤ抑留を経て帰国した父の体重は30 ㎏台にまで減少していた。森林伐採や屍体の運搬などの重労働を経験した父の抑留記には、過酷な作業環境や収容所仲間の悲惨な死が描かれている。

 召集前の“満洲”時代を彷彿させる記述はほとんどないが、一点、満蒙開拓青少年義勇軍に触れた個所がある。零下30 度を下まわる極寒の地、過重な労働、飢餓などで抑留仲間が次々と死んでいく。その屍体を運ぶ労働を課されていたときの描写。

 屍体置場に山積みされた素裸の遺体の大部分は栄養失調でやせ細っているが、体格がよく若々しい遺体も案外多かった。

 「彼らは、有り余る体力に任せて無理なノルマをこなし、たかだか黒パンの50 ㌘、100 ㌘を余分にもらうために頑張った挙げ句」に力尽きた義勇隊の隊員だった。

 おとなと同じように、終戦直前、突然現地召集されて「在満部隊に入隊し、そのままシベリヤに連行された」青年達に対して、父は、「国策に応じ故郷をあとにしたまま、ついに生きて再び親兄弟に会うことなく異国の凍土の下で眠る」無念を思い、「や

り場のない怒りや痛ましさを感じ」ている。

 父の書きぶりでは義勇隊の隊員は体格のいい屈強の青年がイメージされる。一方で彼らはいたいけな子どもでもあった。

 1993(平成5)年に創設された埼玉県平和資料館が開館1 周年記念に行った企画展「学舎(まなびや)の子どもたち」は、戦争に巻き込まれていく子ども達の具体的な事例として、学童集団疎開や勤労動員とともに、満蒙開拓青少年義勇軍をあげている。

 

 学童疎開はその対象が1 年目(1944 年度)は3 年生から6 年生、2 年目になると1 年生にまで拡大され、文字通り「児童受難史」そのものである。義勇軍は最年少で14 歳、比較すればやや年長であることも手伝って、私自身は当初、子どもたちの戦争として並列で捉えることに戸惑いもあった。しかし、上笙一郎が著書『満蒙開拓青少年義勇軍』(中公新書1973)で「児童受難の歴史」と断じることに、いまは共鳴する。

上左:父の自叙伝『私の歩んできた道』(1996)表紙上右:埼玉県平和資料館企画展『学舎の子どもたち』(1994)図録表紙、「あいさつ」は服部文子館長なお、図録には、小稿「東京都学童集団疎開と埼玉県」が掲載されている


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