VOL.1 <「義勇軍」探究への道> NO.2 都市と農村

※今号から煩雑を避けるため、本文では“満洲”を満洲と表記します

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 上笙一郎『満蒙開拓青少年義勇軍』

 児童文化研究者の上笙一郎(カミショウイチロウ)は、「女性史よりもさらに数等遅れている<日本児童史>の研究を一歩でも前進させた」かったと、『満蒙開拓青少年義勇軍』の「あとがき」に書いている。

 この本を出版した前年に妻の山崎朋子が女性史の草分け的作品、『サンダカン八番娼館-底辺女性史序章』(筑摩書房、1972)を出版していることが思い起こされる。研究者カップルが切磋琢磨し合い、連続して研究成果を世に問うたとも映るが、上にとって満蒙開拓青少年義勇軍は決して他人ごとではなかった、という個人的な背景は見落とせない。

 

 上は1933(昭和8)年に生まれ、敗戦の年は国民学校高等科1 年だった。義勇軍に応募できる下限の年齢が高等科を卒業する2 年だった「おかげでわたしは義勇軍に参加せずにすんだ」と、右に抜粋した文章に続けて書いている。

 つまりは上自身に満蒙開拓青少年義勇軍に志願するつもりがあった。その理由として、まずは、農地もろくにない貧しい山村に生まれたこと、その寒村にあって生家はとりわけ貧しい階層に属していたこと、そして上自身は三男で、義務教育修了後には家を出て経済的に自立しなければならない立場であったこと、などを列挙する。

 そのうえで義勇軍に応募する意義を強調する。「片手に鍬、片手に銃」のスローガンを掲げる義勇軍は、軍人になりたいという当時の少年の多くが描いた夢を満たしてくれる。そして、現地訓練終了後には耕地がもらえ自作農になれるという現実的な希望も満たしてくれる。

 こうして、「農村プロレタリアートの三男として生まれた」上にとって、義勇軍に志願することは「日本人の自分の使命」でもあり、「貧家に生まれた自分の多少とも幸福に生きられる唯一の道」、と「固く決心する」までになっていたというのだ。

 

 貧しい農山村の子どもばかりが義勇軍の対象だったかのような表現はやや極端に過ぎ、誤解を生じさせかねない。ただ逆に、元来が農村の二・三男をターゲット

にした施策であったという基本事項が見落とされがちであるとするなら、上の念押しにも意味はある。

 上自身はあまり意識していないようだが、義勇軍に応募する子ども達の多くに共通する特質を、さりげなく伝えてもいる。上は「義務教育を終えたら東京」に出るつもりだった。義務教育(国民学校高等科は1941 年度から義務教育化の予定だったが、実施されなかった)修了後に進学の選択肢はないことを、暗に示唆しているのだ。

 小林信彦『冬の神話』

 上の故郷、埼玉県入間郡原市場村は埼玉南端の県境にあり、山間僻地ながらも一歩またげば東京で、在所に職を得られなければ東京に出るのが当たり前の地域だ。(右地図参照)

 そうした東京至近の貧しい村々も、戦争終盤期、本土空襲が叫ばれ疎開政策が始まって、1944(昭和19)年夏に学童集団疎開が急速に進められると、その受け入れの対象になった。

 原市場村は免れたが、両隣の入間郡飯能町と名栗村、そして飯能町の北東に隣接する高萩村は、日本橋区の千代田国民学校を割り当てられた。飯能町長光寺で学寮長を務めた千代田校堀井竜三郎元訓導は、「野菜を持ち寄ってくれるなど、地域の方々には本当にお世話になりました」と、私の取材に丁寧に応えてくれた(1990.1.20)。

 一方、子どもの立場で名栗村に疎開した作家の小林信彦にとって、集団疎開の体験は「この世の地獄」だった。「想起するだけで首筋が熱くなるような屈辱感にとらわれ」ながら戦後を生きてきたが、20 年を経てフィクション化し、『冬の神話』(講談社1966)にまとめた。「今、ようやく、あの異常な体験を取り乱すことな」く描くことができたとあとがきに記す。

 小説とはいえ、『冬の神話』にはいたるところで疎開生活の実態が浮き彫りされ、小林自身の思いが吐露されている。

 集団疎開1 年目の6 年生は、宿舎(学寮)で上級学校進学をめざして受験勉強に励んでいた、という事実は小林の千代田国民学校だけのことではない。小林の学寮では指導者不足ということか、「粗末な印刷の中学入試問題」で自学自習したようだが、私がかつて高校生とともに調査した比企地域が受け入れた集団疎開4 校のうちには、熱心に受験指導したことを懐かしむ引率教師が複数いた。

 

 右は比企郡玉川村(現ときがわ町)の町田旅館に疎開していた日本橋区有馬国民学校の元疎開学童が1995 年に町田旅館に集まった際の記録である。引率教師も同席し、受験勉強の思い出は両者の間でよくかみあった。町田旅館の疎開学童は全員女児、東京では女子さえも上級学校進学が大勢だった。

 上級学校進学は当たり前で疎開地でさえ受験勉強に励む大都市の子どもたちと、疎開受入れの役割を突然押しつけられた農山村地域の学童の間には、厳然たる教育格差があったのである。

 有馬校の子どもたちを麹踏みの体験で喜ばせたのは、味噌・醤油屋を営む村長である。当時の柏俣村長とその弟は満洲移民に熱心だった。弟は地元の松山中学を卒業したあと、内原の日本国民高等学校で訓練し、帰郷後は加藤完治が提唱した皇国農民団を結成したという。加藤完治は泊まりがけで柏俣家を訪ね、周辺地域の青年に「カンナガラノミチ」を説いてまわった。村長と弟は自費で何度か渡満し、いずれ移民するつもりだった。そう話すのは村長の息子で、自身も戦後玉川村の村長を務めた柏俣昌平氏である(1998.5.9 一條聞き取り)。

 両親(柏俣昌平氏の祖父母)の反対で満洲移民を断念したというが、村として学童集団疎開を受け入れた1944 年夏の頃には、分村はいざ知らず、村長クラスの人間の単発的な渡満を奨励する空気は薄らいでいたのかも知れない。

 名栗村の鳥居観音

 教育面に限らず、生活全般に都会の子どもと村の子どもには大きな隔たりがあった。小林たち疎開学童は「村の子らを珍しい動物扱い」し、村の子らは「生っ白いソカイを白眼視」した。

 子ども同士の対立だけではない。「村人たちの冷たい眼」も疎開側にはやりきれない。小林少年らは、ねんねこを背負った老婆にすれ違いざま悪態をつかれ、「憎悪の目」でにらみつけられた。

 なぜなのか、もちろん子ども達はわからない。私達も推測するしかない。

 ただ、戦後の今の社会には、無性に母親が恋しくなった疎開の子どもの心情に寄り添う言辞があふれている。小林自身は同情されることに反発するに違いないし、美談で学童疎開を語ることへの不快感には理解できる面もある。

 それにしても、今に到るまで、にらみつけた老婆の思いを代弁する記述にはほとんど遭遇し得ていない。

 千代田国民学校が疎開した1 町2 村のうち、名栗村と飯能町は上笙一郎の生地原市場村を加えて東西に連結し、戦後合併して飯能町になった。飯能町には武蔵野鉄道(現西武池袋線)の駅があり、まち場としてのにぎわいや経済的な余裕があった。

 鉄道敷設の目的は原市場村方面から伐り出された木材の輸送である。上が書く「西川材」とは、江戸の西側の川をくだって運ばれる木材のことであり、それを調達する山林の中心は原市場村より上流の名栗村だった。

 木材を名栗川から筏で運んだ時代は豊かであったとも伝わるが、昭和初期の頃までには上の言う木々の「伐り出しや東京への出稼ぎで、辛うじて暮らしを立て」る寒村地帯になっていた。

 

 上は、生地周辺が「全国でも有数の義勇軍送出地となった」と書く。突出して多かったわけでもないが少なくはない。原市場村が10 人、名栗村は7 人である(埼玉県『曠野の夕陽-埼玉県満蒙開拓青少年義勇軍の悲劇』1984)。

 名栗村の村長で山林地主の平沼彌太郎(1892~1985)は、戦後参議院議員を一期務めるなど政財界で活躍した。観音信仰に厚い母の勧めに従って、1940 年に持ち山の白雲山に「鳥居観音」を開いた。仏像はじめ建造物の多くを平沼自ら30 年以上かけて造り、巨大な観音像のそびえる観光名所としても名高い。

埼玉の郷土中隊

 その白雲山の中腹に、1941 年に送出した第四次埼玉県郷土中隊の碑が建っている。1976(昭和51)年に建立された久保中隊の「埼玉郷土部隊第一中隊之碑」である。建設までの経緯やその後の慰霊祭について、鳥居観音のしおりが参考になる(前頁、上記等参照)。

 1941 年、埼玉県は県児だけで構成する郷土中隊を2 個編成した。郡市別に分け、中隊長の名を冠して加藤中隊、久保中隊と呼ぶ。

 名栗村や原市場村の入間郡は加藤中隊に所属し、中隊碑は1983(昭和58)年に北埼玉郡騎西町(現加須市)中央公園に建立した(戸ヶ崎恭治「郷土出身開拓団へ入植」)。入間郡が鳥居観音でなかったのはなぜ、と聞きたくもなるが、加藤中隊長が北埼玉郡出身であることが関連しているのかも知れない。加須市と合併したいまも加須市騎西中央公園で健在であることを市に確認した。

 両隊とも日ソ開戦後の混乱やきびしい収容所生活中に多くの犠牲者を出している。ねんねこの老婆の家から義勇軍の子どもを出したかはまったくわからないが、東京の子ども達が疎開し

た村々の実情の一端ではある。

 疎開した側と受け入れた側の確執をことさらに強調するつもりはない。上笙一郎は満蒙開拓青少年義勇軍を「児童受難の歴史」として一書にまとめたが、同書において学童疎開もまた児童受難史の一つにあげている。当事者にとってそれぞれの体験は唯一無二のものであって、どちらがより大変だったかなど

「不幸の競争」をすることに意味はない。

 

 ではあるが、ひとしく「児童」に括れる少年達が参加した満蒙開拓青少年義勇軍の歴史や実態は、あまりに等閑視されている。

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