カテゴリ:一條三子



「満蒙開拓青少年義勇軍」小史第17号(一條三子)
2024/12/15
東宮は年頭にも、「朝ぼらけ烏蘇里の岸に若人の口すすぎする溌剌のすがた」 などの歌を詠んでいます。この歌の所収は機関誌 『大和』 の創刊号です。12月1日の大和村村会で発行を決定し、その編集は石森と、同年齢で大谷学生の小林富雄が任されました。早速年明けの1月に創刊号を出し、月に一度、8月15日の第八号まで欠かさず出しているようです。

「満蒙開拓青少年義勇軍」小史第16号(一條三子)
2024/12/01
前号では北進寮の実情に迫る貴重な資料として、石森克己の『饒河少年隊』に引用されている「寮日記」をできるだけ多く紹介しました。その最後、1935年11月11日の記事には、東宮が1週間寮に滞在し、寮生達が楽しい時間を過ごした様子が記されています。石森によれば、これが手元に残る寮日記記事の最後です。

「満蒙開拓青少年義勇軍」小史第15号(一條三子)
2024/11/15
創設から数ヶ月間の、北進寮の体制が整う時期を改めて掘り下げ、饒河少年隊が初期にめざしたものは何か、変容していく背景に何があるのか、探ってみたいと思います。

「満蒙開拓青少年義勇軍」小史第14号(一條三子)
2024/11/01
饒河少年隊構想のルーツについては、前号で述べた通り、蘭軍常勝隊長西山勘二が東宮鐵男に進言した「ウスリー地方移民突撃隊」案がベースか、東宮自身のアイデアであるか、がもっぱら伝えられてきた争点です。でも、正直な話、何か腑に落ちないのです。

「満蒙開拓青少年義勇軍」小史第13号(一條三子)
2024/10/15
義勇軍が国策化された翌年(1939)に拓務省がまとめた「満蒙開拓青年義勇隊現況概要(「現況概要」)」で、饒河少年隊は「正に満洲開拓青年義勇隊の濫觴なり」と評されています(11号参照)。

「満蒙開拓青少年義勇軍」小史第12号(一條三子)
2024/10/01
 『満洲開拓史』は伊拉哈少年隊を、「まぎれもなく満蒙開拓青少年義勇軍の先駆」と位置付けています。この未成年移民隊の概要を定めているのが、「青年農民訓練所(仮称)創設要綱」(以下「創設要綱」)です。

「満蒙開拓青少年義勇軍」小史第11号(一條三子)
2024/09/15
第一次満蒙開拓青少年義勇軍とは1938(昭和13)年に編成された70 個足らずの義勇軍中隊のこと、ではありますが、未成年男子による農業移民の発想自体は武装移民の頃から芽吹いていたことを、これまで述べてきました。このシリーズでは、実体をともなう第一次年隊以前の「青少年義勇軍」について、大きくは三つの例に分けて紹介します。

「満蒙開拓青少年義勇軍」小史第10号(一條三子)
2024/09/01
1932(昭和7)年10 月5 日、神戸港を出発した青森県以下11 県423 名の第一次武装移民は8 日に大連港に上陸し、鉄道で奉天まで北上、ここで日本国民高等学校北大営分校の60 名(他に先発した10 名)と合流して2 泊したのち、再び鉄路で哈爾浜(はるぴん)まで進みました。

「満蒙開拓青少年義勇軍」小史第9号(一條三子)
2024/08/15
案をもとにして、加藤完治、石黒忠篤、宗光彦が作成した六千人移民案が閣議で却下された1932 年3 月、 加藤は通過するものと信じ切って移民実施に備えようと考え渡満していました。石黒からの電報で不採用を知りますが、「何らの失望落胆もせずに元気よく」関東軍参謀の石原完爾に面会し、「将来の移民決行の準備教育」(「武装移民生い立ちの記」)のために北大営の一部を借用することに成功します。

「満蒙開拓青少年義勇軍」小史第8号(一條三子)
2024/08/01
前号で蒙開拓青少年義勇軍のルーツは日本国民高等学校北大営の開設時(1932.6)まで溯(さかのぼ)ることができると書きました。であるならば、本校である日本国民高等学校の創設(1925.12.22 認可、1926.2.1 開校)をもってルーツにしてもよさそうですが、さすがに第一次満蒙開拓団送出の気配さえない時期の開校、直接のルーツとして提言するには無理がありすぎます。

さらに表示する